紹介作品 No_099  【顔】


 

紹介作品No 099

顔】 〔小説新潮:1956年(昭和31年)8月号〕
井野良吉の日記                              --日。今日、舞台稽古のあとで、幹部ばかりが残って何か相談をしていた。先に帰りかけると、Aと一緒になった。五反田の駅まで話ながら歩いた。「何を相談しているか知っているか」とAはぼくに云った。蔵書【松本清張全集 36 地方紙を買う女・短編2】:小説新潮:連載1956年(昭和31年)8月号

犯人が共犯者や関係者の動向を気にする。その関係者が、犯人を特定できる情報を持っているとなると、その動向は
命取りになる。
それが共犯者なら決定的だ。その意味で、この作品は、【共犯者】に似ている。
興信所等を使って、その人物の、現在の状況を把握したい欲求を押さえることができない。
【顔】では、殺人行の途中で思わぬ人物が登場する。
その男がすべてを握っている。と、確信する。

小説は犯人の「井野良吉」の日記として話が進む。(ただし、日記の日付の記載はない/最初に但し書きがある)
井野良吉は、、役者の卵といってよいのだろう。五反田の近くにある劇団に所属していた。
稽古の帰りがけAと一緒になった。Aの話では、劇団に△△映画会社から出演交渉があったらしい。
それも巨匠族の石井監督の作品らしい。Yマネージャーが頻繁に打ち合わせをしているらしい。

Yの話では、その石井監督が井野良吉を指名しているというのだ。

井野良吉にとっては思わぬ幸運だったが、不安があった。それは壊滅的なことだった。
「春雪」の撮影が始まった。限られた場所での小さな劇場での公演と違って、映画は全国で上映される。
出演料は四万円。羨ましがるA君をつれて、道玄坂の裏で飲んだ。井野は羨望されてよい立場だった。

井野は予告編を見たが、出ている場面はなかった。近日上映...井野はそれが恐ろしかった。
Yから上々の評判を聞かされ、石井監督からもお褒めの言葉があったと聞かされる。
膨れ上がる期待とは裏腹に不安は増してくる。

全国上映されるが、井野の周りに変化はなかった。
何事もないのが当然であろう。その男が映画を見る確率は一万分の一か、十万分の一の偶然でしかないのだ。

次期作品の話が進む。前作はちょい役程度だったが、次は違う。
今度は、十分の一くらいの確率になるだろう。
>ぼくは、のしあがったとたんにつづく破滅を今から幻想している。

>ぼくは仕合わせをつかみたい。
>正直いって名声と地位を得たい。金が欲しい。
>大レストランでシャンパンを飲みながら、自分専用の歌を聞いて泣く身分になりたい。
>せっかくの幸運をこのまま埋もれるのは嫌だ


作品名は『赤い森林』。撮影があと三十日で始まる。

井野良吉は、忌まわしい必然性を穽に埋めることを決意した。一人で穽埋めの土を運ぶ賭けを決心した。
Yと飲む井野だが、ニヒルな顔つきを褒められる。
「そんなに違って見えますか?」
「うん、見える。見える。
ちょっと特異な顔だ
映画は、そんな井野の特異な顔を売ろうとしている。

井野は、八年前から、ある人物の身元調査を依頼していた。一年に一回、報告を受けていた。
『石岡貞三郎』の調査報告が手元にある。『石岡貞三郎』こそ『
その男』である。
石岡貞三郎は八幡市(現在の北九州市/八幡市通町三丁目)に在住。九州製鋼株式会社の事務員
大正十一年生まれ二十六歳、独身。
勤め先がY電気株式会社に変わる。住所は、八幡市黒崎本町一丁目。
六年目に結婚、七年目に長男が生まれる。

※九州製鋼株式会社は、八幡製鉄。Y電気株式会社は、安川電機だろう。住所もそれに近い場所が存在するのだろう。

九年前の出来事だった。
昭和二十二年六月十八日、午前十一時二十分頃、島根県の海岸沿いを走っている汽車の中だった。
井野良吉の連れは山田ミヤ子。ミヤ子は何も知らないが、井野の殺人行だった。
>「あら、石岡さんじゃない?」
下関発京都行きの汽車の中での、ミヤ子の発言からすべてが始まる。
ミヤ子は八幡の大衆酒場の女給だった。
彼女は、井野良吉の子を身ごもっていた。
そして、「あなたがどんなに頼んでもだめよ。これは初めての子ですものね、そんなかわいそうなことはできないわ。あんたはそうさせて、わたしから逃げるつもりなんでしょ。卑怯者。そう都合よくはいかないわ。あんたの勝手ばかりになるもんですか。どこまでもあんたから離れないからね。」
吉野に言わせれば、ミヤ子は、無知で醜いくせにうぬぼれている無教育な、がさがさした性格の女。
そんな女と関係を持ったことを後悔してもしきれない状況だった。
一日でも早く手を切りたい吉野は、どんな手段を使ってもミヤ子と手を切るつもりだった。それが今回の殺人行。
>「あら、石岡さんじゃない?」と、声をかけられた青年は、ミヤ子を認めて世間話をする。八幡の店での再会を約束して
浜田駅に着いた汽車から降りて行った。そのとき石岡と呼ばれた青年は、吉野の方をじろりと見ていった。気がした。
ミヤ子は世間話の中で、今回の旅行が買い出しを兼ねての温泉旅行と話したので、なおさら連れの男が気になったはずだ。
井野良吉は、ミヤ子からその男が店の客であり、名が石岡貞三郎であること聞き、その名を胸に刻んだ。
井野はこの時、「唇が厚くて眼がぎょろりとしていた」石岡を、はっきり覚えてた。
だから、石岡も井野をはっきりと覚えているはずだ。と、思った。

島根県で殺人を決行した井野良吉は、北九州で発行されている地方紙と島根県で発行されている地方紙を毎日購入する
ことになる。(「地方紙を買う女」の女と同じ動機だろう)
九月になると、島根県の地方紙に白骨死体の発見記事が載る。
十月末に、北九州の地方紙が白骨死体の身元を載せる。

ミヤ子の店に顔を出した石岡は、ミヤ子が行方不明になったことを知る。
そのとき、店の他の女給に、京都行きの汽車の中でミヤ子に会ったことを話した。男連れであったことも。
石岡貞三郎の元に警察が来るのに時間はかからなかった。
警察の係官は、「その男の顔を見たらすぐわかりますか?」
石岡の答えは「わかります。よく覚えています。一目であの男の顔はわかります」
これは井野の想像だが、井野自身が石岡をはっきり覚えているのだから石岡も井野のことを...確信していた。

石岡貞三郎がはっきり覚えているはずの「顔」を世間に晒す羽目になる。
映画の出演が決まり、撮影目前なのだ。前作の「春雪」のちょい役とは違い、「赤い森林」では重要な役で出番も多い。
井野の動機ははっきりしている。ただ一人と言ってもよい、殺人行の目撃者の抹殺だ。撮影前に実行しなければならない。
それには、石岡貞三郎をおびき出さなければならない。
結論から言えば、井野は浅はかな知恵を出す。
石岡を呼び出す口実として、山田ミヤ子の親戚を名乗り、ミヤ子殺しの犯人らしき人物を見つけたと手紙を出した。
目星をつけた犯人の首実検の依頼である。ただ、確定したわけではないので、人権尊重の意味からも警察への連絡は
しないでくれ、後日でも十分可能だからと念を押した。
入念な計画を立て、これでうまくいくと考えた。シナリオは出来上がったのだ。が、
これも結果論からいえるのだが
石岡貞三郎が警察に相談したらこの計画は破綻する。
手紙を出す行為は、吉野が石岡の住所を知っていることになる。
警察は後で指摘するが事件当時から引っ越しをしている石岡の住所が間違っていない。(転送ではない)
手紙は虚偽の内容だが、所々に事実が書かれていた。

待ち合わせの場所は、京都駅の待合室。井野は演劇人らしくその場面をシナリオ的に描く。

小説は、石岡貞三郎の側からも描かれる。
井野の思い込みとは違って、石岡は井野良吉の顔をほとんど覚えていなかった。警察でもそう証言していた。
石岡は、手紙のことを、当時の事件主任に相談した。田村刑事部長は、興奮して言った。
「石岡さん、あんた京都に行ってください。」
田村刑事部長は、石岡が梅谷利一(手紙の主)の顔を知らなくてもよいという。
部長刑事は犯人が目の前に飛び込んで来たと思ったのだろう。
「それじゃ、この手紙をくれた梅谷利一がおかしいと言うのですか? 梅谷利一は井野良吉の手紙での偽名だ。

ちょっと偶然すぎる気がするが...
井野は、一人で「「いもぼう料理」を食べていた。
京都に着いた石岡貞三郎と二人の刑事は、時間の余裕から「いもぼう料理」を食べることになった。
店の都合で、先客の井野と同席なる。
九州訛りの会話に思わず顔を上げた井野良吉は驚いた。心臓が止まるかと思った。息ができなかった。
井野は石岡の顔をはっきり覚えている。目の前には石岡貞三郎がいる。突然始まった首実検だ。
だが、九年前のあの男、石岡貞三郎には全く変化がなかった。
石岡は、はじめから井野の顔をよく覚えていなかったのだ。井野はここでそのことに気づいた。
だが、連れの二人の男を友人であろうと思っていた。
井野は、石岡が覚えていないことを知ると、天にも昇る気持ちになった。
(ぼくは急に天上にでも、ふわりと舞い上がったような気持ちになった)
井野は当然待ち合わせの場所には行かなかった。
すっぽかされた石岡貞三郎と二人の刑事は九州に帰った。一応どこかで感づかれたのだろうとの結論だった。

井野良吉の場合
撮影は順調に進んだ。安心は演技にも自信となって現れた。
>大レストランでシャンパンを飲みながら、自分専用の歌を聞いて泣く身分になりたい。
口に出して呟くことができた。

石岡貞三郎の場合
久しぶりに映画を見に行った。題名は『赤い森林』
画面には、Yから褒められた、ニヒルな顔つきの井野良吉が映し出される。
「そんなに違って見えますか?」「うん、見える。見える。ちょっと特異な顔だ」といわれた井野良吉の顔だ。
石岡貞三郎は、
>...おれははてなと思った、どこかで見たぞ。これは。夢ではない。
ずっと前にあった。たしかにあった。京都行きの汽車の中でもふと刑事を見て思ったこともあったが。
映画の画面には、大写しの井野良吉...
おれは思わず、大声を上げた。
映画館を飛び出し警察に向かった。


●作品はまるでシナリオのように書かれている。
小説なのだから当たり前のことなのだろうが、映像が浮かんでくる。台詞回しも手に取るようにわかる。
そのまま朗読劇が成立しそうだ。
だからか、映像化が凄い!。テレビは12本制作されている。
主人公が女性だったり
(最初の映画化は、女性が主人公/岡田茉莉子)変化はあるが、『顔』が商売である職業
であり、過去の忌まわしい事件を引きずりながら生きてきた主人公が絶頂期を迎える寸前に落ちていく。



■【巨匠族 石井監督】■
※石井 輝男(いしい てるお、1924年1月1日 - 2005年8月12日)は、日本の映画監督・脚本家である。
本名は北川 輝男(きたがわ てるお)。東宝に撮影助手として入社。
新東宝で『女体桟橋』などの佳作を発表した後東映に移り、高倉健主演の『網走番外地シリーズ』が
連続でヒット作となった。
東映のヒットメーカーの一人であり、1968年(昭和43年)より東映ポルノと呼ばれる
一連の作品を発表した。また、松竹や日活でも作品を発表している。
1970年代までにポルノとアクション映画を量産した。
ただ石井輝男はエロスだけの監督ではなく、前衛舞踏の土方巽を登場させるなど、
表現規制を打ち破ること、芸術志向と娯楽作品が同居した監督だった。
1990年代はつげ義春・江戸川乱歩の世界へ傾倒した。

■【いもぼう料理】■
海老芋と棒鱈を炊き合わせたもの。
海老芋は里芋の一種で、江戸時代中期に九州で作られていた唐芋(とうのいも)
を京都に持ち込んだのが始まり。
上等品のため、倹約を旨とする商家などでは正月など特別な機会のみに使った。
棒鱈は真鱈を干したもので、その昔は安価だったため、
ただの里芋と棒鱈の芋棒は京都の庶民の惣菜であった。


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●映画
監督:大曽根辰夫
脚本:井手雅人・瀬川昌治
製作:岸本吟一
出演者:岡田茉莉子・大木実
音楽:黛敏郎
撮影:石本秀雄
配給:松竹
公開:1957年1月22日
上映時間:104分

●テレビドラマ
1958年版
1959年版
1960年版
1962年版
1963年版
1966年版
1978年版①
1978年版②
1982年版
1999年版
2009年版
2013年版
実に12本制作されている。


2019年10月21日 記

登場人物

井野 良吉
(梅谷利一)
舞台俳優。五反田に劇団がある。ニヒルな顔つき。Yにちょっと特異な顔だと言われる。
女給の山田ミヤ子を妊娠させ、邪魔になり殺す。映画監督の石井にも認められ、俳優としてのし上がる途上である。
ミヤ子を殺すための殺人行を石岡貞三郎に目撃される。浅知恵で、目撃者の石岡をおびき出し殺そうとする。
梅屋利一:石岡貞三郎を誘い出すために手紙を書く時の偽名。
山田 ミヤ子 八幡の初花酒場の女給。井野良吉の子を身ごもる。無知で醜いくせにうぬぼれている無教育な、がさがさした性格の女
石岡 貞三郎 大衆酒場の常連。女給の山田ミヤ子に気がある。今は結婚して一人の子持ち
京都行きの汽車の中で、ミヤ子に声をかけられ、井野良吉の殺人行を目撃するはめになる。
井野の顔は覚えていなかった。唇が厚くて眼がぎょろりとしていた。二十七八の青年(事件当時)。
田村刑事部長 事件当時の捜査主任。石岡貞三郎へ梅谷利一(井野良吉)から来た手紙の相談を受ける
梅谷利一(井野良吉)に疑いを持ち、石岡に京都行きを勧める。
Yさん 井野良吉の同僚。劇団のマネージャー。何かと井野の世話を焼く
A君 井野を羨ましがる。井野が出演ギャラで奢ってやる。井野の同僚劇団員
石井監督 巨匠族の映画監督。井野良吉を買っている。石井輝男という、実在する映画監督がいる。お名前拝借程度?

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