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清張分室 パンドラの過去? 清張分室

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『松本清張事件簿No08』

「松本清張と林房雄」



私には客観的に論評する資格も知識も無い。
清張作品(象徴の設計)も一度読んだだけで、あまり印象に残っていない。
ただ、独断と偏見で林房雄氏の経歴と清張の経歴から結論を導き出してしまう。
林房雄の「転向」は、1932年の出所(1930年治安維持法違反で検挙、投獄)
1936年『プロレタリア作家廃業宣言』で決定的になる。
清張は当時、27歳。結婚した時期である。
「象徴の設計」は1962年の作品(文藝:1962年(昭和37年)3月号〜1963年(昭和38年)6月号)

「転向」が林房雄に思想的変化をもたらしたことは間違いないだろう。
思想的変化が「転向」に繋がったのか、同じようで違うと思う。投獄という具体的、物理的変化が
「転向」へと向かったのだろう。
だから、
右寄り路線になると松本氏一連の作品を批判するようになり、とくに松本氏の明治物の代表作である「象徴の設計」をやり玉に挙げた。...
そして、行き着く先が
「大東亜戦争肯定論」であり、立場の違いが鮮明になる。
「転向」を説明できない者の末路は、三島由紀夫と同穴で終わっている。
※「転向につて」は読んでいない

井上寿一氏の著作で
冒頭、松本清張の山県論を林房雄が酷評、清張の反論を受けたことで、中間小説家だった林が
『大東亜戦争肯定論』執筆に向かったエピソードが記されている。

以下のfacebookで
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=489858914375625&id=369255539769297
●「松本清張とその敵」から少々引用
 松本清張氏は、孤高の作家といえるでしょう。文壇との付き合いがほとんど無かった作家です。もともと付き合い
下手で人みしりの激しい性格なので、例えば丹羽文雄氏のように文壇ゴルフクラブのような組織を作り、仲間同士で
ワイワイやるなどという社交性は皆無の人です。
 それでいて異常な執筆量(多い時は月間連載10本以上!)でベストセラーを量産する姿は、多くの文壇人から
脅威の目で見られていました。
やがてその脅威が、あれはおかしいという声に変わるのにいくばくの暇もかかりませんでした。
 それは平林たい子氏に代表される「あれは一人で書いているのではない。おそらく松本工房のようなものがあり、
集団執筆体制だ。それでなければあの異常な執筆量は不可能だ」という批判です。

【中略】

 また、戦前は左翼作家として有名であった林房雄氏が戦後転向し、右寄り路線になると松本氏一連の作品を
批判するようになり、とくに松本氏の明治物の代表作である「象徴の設計」をやり玉に挙げました。
この小説は、明治の元勲山県有朋にスポットをあて、明治維新以降富国強兵国家を模索する山県が、
天皇を頂点とする中央集権国家を形成する過程を様々なエピソードを交えて描かれています。
林氏はこのように勝手に明治史を「設計」されては困るとシニカルに松本氏を批判したのです。
 売られたケンカは買わなければということで、この時も松本氏は同じく新聞紙上で反論し、林氏との間に数度の
応酬がありました。

※【シニカル】皮肉な態度をとるさま。冷笑的。嘲笑(ちょうしょう)的。


●松本清張ー林房雄 論争
松本清張は、長編歴史小説「象徴の設計」(~1963年「文芸」6月号)において、山県有朋の視点か
竹橋事件を軸に、官と民の利害衝突を描いた。


これに対し林房雄は、天皇制や松方財政について強引な歴史解釈があり、これは怪文書であると批判した。

日本経済史家、土屋喬雄は専制的な山県の明治政府の描き方については清張の考え方に賛成し、
松方財政については林に近い考え方を採った。



●林房雄氏の紹介(例によってwikipedia)
1林 房雄(はやし ふさお、1903年(明治36年)5月30日 - 1975年(昭和50年)10月9日)は、
日本の小説家、文芸評論家。大分県出身。本名は後藤寿夫(ごとう としお)。
戦後の一時期の筆名は白井明。戦後は中間小説の分野で活動し、
『息子の青春』、『妻の青春』などを出版し舞台上演され流行作家となった。


1925年 - 『科学と芸術』を発表。
1926年 - 京都学連事件で検挙・起訴(禁固10か月)。
      『文芸戦線』に小説『林檎』を発表しプロレタリア文学の作家として出発する。
1927年 - 日本プロレタリア芸術連盟分裂、中野重治・鹿地亘・江馬修らは残留し、
      脱退した青野季吉・蔵原惟人・林房雄らが労農芸術家連盟創立。
1928年 - 『プロレタリア大衆文学の問題』発表。
1929年 - 『都会双曲線』発表。
1930年 - 日本共産党への資金提供を理由に検挙。治安維持法違反で検挙。のち起訴され、豊多摩刑務所に入る。
1932年 - 転向して出所。鎌倉に転入。『青年』発表。「新潮」で『作家として』で転向を表明。
1936年 - 『プロレタリア作家廃業宣言』発表。
1937年 - 松本学・中河与一・佐藤春夫らと新日本文化の会を結成。
      日中戦争(日支事変・支那事変)への作家の従軍に参加(このほか、
      吉川英治、 吉屋信子、 尾崎士郎、 岸田国士、 石川達三らが従軍)
1938年 - 『文学と国策』を発表
1939年 - 『西郷隆盛』を発表。1970年に完結
1941年 - 『転向について』を発表。
1963年- 三島由紀夫『林房雄論』が発表される。『中央公論』に『大東亜戦争肯定論』を発表。大きな物議を醸した。
      『朝日新聞』の月一回『文芸時評』を担当する(〜1965年)。
1966年 - 三島由紀夫と対談した『対話・日本人論』を出す。
1972年 -『悲しみの琴―三島由紀夫への鎮魂歌』を発表。
1975年 - 死去。享年72。墓地は鎌倉報国寺にある。


2016年1月21日 記(改:1月25日)

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