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『松本清張事件簿No07』

「松本清張と山本健吉」


まず、山本健吉氏の紹介(例によってwikipedia)
1907年(明治40年)4月26日 - 1988年(昭和63年)5月7日)は、文芸評論家。本名は石橋貞吉。
石橋忍月の三男として、長崎市に生まれる。旧制長崎中学、慶應義塾大学国文科卒業。折口信夫に師事する。
日本の古典詩歌に詳しく、古典作品と現代文学との関係の究明に力を注いだ。また、ながく文芸時評もつとめ、現代文学に関する著作も多い。
「第三の新人」という用語を最初に用いた人物でもある。
改造社に入社し、雑誌『俳句研究』に携わり現代俳句への造詣を深める一方、『批評』を創刊し、私小説を論じる。
戦時中の同人雑誌統合のなかで、堀田善衛と交友をもつ。40代まで貧困に苦しむことも多かったが、戦後、俳句を中心に現代小説など何でも書き、
1955年(昭和30年)、『芭蕉』で新潮社文学賞を受賞。翌年、『古典と現代文学』で読売文学賞受賞。
1963年(昭和38年)、『柿本人麻呂』で再度読売文学賞を受賞。1966年(昭和41年)、日本芸術院賞を受賞し[1]、1969年(昭和44年)
日本芸術院会員に就任[2]。1972年(昭和47年)より日本文藝家協会理事長、のち会長となる。1979年(昭和54年)、
『詩の自覚の歴史』で日本文学大賞受賞、1981年(昭和56年)、『いのちとかたち』で野間文芸賞、文化功労者。1983年(昭和58年)、文化勲章受章。




1967年(昭和42年)7月29日:讀賣新聞夕刊にて、山本健吉氏が清張の『火の虚舟』を批判した。
※批判の論旨(全文を引用すればよいのだが長くなるので)
@
...史料調査が、いかに大変なものかは想像の外だが、この作者のように忙しい身でそれをすることは、私には
超人わざと思えるのである。.....調査のためには多数の協力者が周囲に集められているのかも知れない。
A
文体は「です」調である。あるいはこれは口述筆記によろか、テープに録音したものによるかしたものであろう。.....これはそれだけ文章が粗になって
いる。むしろこれは、口演体と言うべきかも知れない。
B
...そして松本氏は、その前後の文章を引用しながら.....これが感想としてナンセンスであることは、三尺の児童でも分かる。
一体作者は、どうして兆民の伝記に興味を持ったのだろう。彼の性格を「人嫌い、交際べた、和合のなさ」などと言っているが、そのようなところに親近感を覚えたのだろうか。


@
『火の虚舟』についての批判であるが、ある意味、言い古された批判でもある。
調査のための、協力者の存在が批判されている。協力者の存在自体を否定しているのではないのだろうが
作家(清張)自身が地力で資料を集める事が尊いのだろうか? 資料さえあれば誰でも書けると言いたいのだろうか?共著的な協力者なら、協力者の存在を明らかにすればよいのであり、作家の指示の元で集められた資料を、作家の責任で料理するのなら何ら問題は無いと思う。

A
口述筆記やテープの存在は、「です」調の文体と関連して批判されるべきではない。そして文章が粗になっているなら具体的指摘も必要であろう。「三尺の児童でも分かる」と切り捨てているが、理解できない。

B
>彼の性格を「人嫌い、交際べた、和合のなさ」などと言っているが、そのようなところに親近感を覚えたのだろうか。
と、書いているが、彼(清張)の性格を「人嫌い、交際べた、和合のなさ」と言っているに等しい。
そんなに悪い性格とも思えない。だから、中江兆民の性格からして「つまらぬ男だった」とは思えない。
人それぞれである。
清張氏の反論を待たずして、感想を書いたが、過去の事件簿No2(松本清張と平林たい子)と酷似している。

1967年(昭和42年)8月08日:清張は、「的はずれの批評である」として反論している。
1967年(昭和42年)8月8日:讀賣新聞夕刊にて「批評という感想文」:松本清張
上記(過去の事件簿No2(松本清張と平林たい子)と酷似している。)でも書いたが、清張氏も指摘していた。
今回の事件簿で、最初に7月29日の夕刊をコピーサービスで入手(2015年9月6日:入手日)し、後日、8月8日の
コピーと8月16日のコピーを入手した。(2015年9月12日:入手日)
私が、清張氏の反論を読む前に平林たい子氏の件と似ていると感じた。
反論の内容を検討してみよう。記事(反論)の小見出しを観てみる。
一.引用文に誤りはあった
二.兆民を知らなすぎる
三.多数の協力者はいない
である。
一.は、山本氏の指摘を認めている。が、「三尺の児童でも分かる」が、
  「カチンと来た」ようだ。氏の文章のエキサイトぶりには目をみはる思である。と、続く。
二.は、文体についての反論。露伴についての見解。山本氏が「目に浮かべ」て書いた内容に反論。
三.は、平林氏に対する反論と同様に、「多数の協力者」のでっち上げ?
  山本氏の批評に「一種の昂奮さえみられる」と断言。作家と評論家の関係について忠告的な言及。

問題は、山本健吉氏の再反論である。1967年(昭和42年)8月16日:松本清張氏に答える。
1967年(昭和42年)8月16日:讀賣新聞夕刊にて「松本清張氏に答える」:山本健吾
これも記事(再反論)の小見出しで考える。
T.文学作品として取り上げた。
U.リアリティをささえる文体
V.オリジナルな史料にふれず
W.親疎は批評に関係ない
である。
T.は、その通りだと思う。文芸批評家が、「文学作品」として批評したのだろう。
U.は、文体についてである。「文体の密度」が問題らしい。この批判は、「口語体(口述)」「口演体」として
  文章が粗になっているとの批判に続くのだろう。しかし、清張の書く作品に共通しての事ではないと思う。
  作品の出来不出来は当然あるだろうが、根本的な問題を含んでいるようだ。
これには大本がある。

  三島由紀夫が「清張には文体がない。文学じゃない」と語っている。(1963年中央公論社が文学全集を刊行する際)
  山本健吉氏の批判は「火の虚舟」に限っての事だろうか...?
第28回芥川賞選考時の坂口安吾氏の批評を紹介しよう。(受賞作品:「或る『小倉日記』伝」について)

●「或る『小倉日記』伝」は、これまた文章甚だ老練、また正確で、静かでもある。
  一見平板の如くでありながら造型力逞しく底に奔放達意の自在さを秘めた文章力であって、
  小倉日記の追跡だからこのように静寂で感傷的だけれども、
  この文章は実は殺人犯人をも追跡しうる自在な力があり……

坂口安吾の予言は的中している。

V.は、内容の粗とでも言うべきである。史料(資料)の取捨選択は作家自身にある。結果が作品に反映されるのは
  勿論である。清張氏の反論を待ちたい。
W.は、清張氏に軍配を上げる。
  山本健吉氏は「批評家の書くものを作家との親疎によって批判するという、氏の性(さが)を露呈している」
  「.....どの批評家も同じ気持ちだろう。親しいから手加減し、親しくないから辛い点をつけるなどとしたら、それ   は批評家の自殺行為である。...こんなくだらないゲスのカングリ的な心情が見えることを惜しむ。」
  と、批判されている。
  私もゲスなのでしょうが、カングリます。批評家は一般人間と隔絶された尊い存在なのだろうか。
  そのような存在でありたい、あり続けたい、そう心がけていることは理解しても、山本氏が指摘されるゲスこそ
  一般的な感情ではないだろうか。

  卑近な例になるかも知れませんが、野球評論家と言われる人たちがいます。
  おっと、野球評論家と文芸評論家を一緒にしないでくれの声がありそうだが...
  野球評論家は現役時代の所属球団の選手にたいして比較的甘い解説が多く見られる。
  ある意味ファンや球団に迎合が感じられる。勿論一部の「解説者」かも知れない。
  野球は文学と違って科学的で数字が幅をきかせます。スポーツはそうしたものでしょう。
批評とは
  本来なら、批評(解説)は科学的であるべきですし、主観に左右されるべき要素は比較的少ないと思います。
  スポーツなら尚のことです。
文芸批評とは
  蛇足的に言えば、文芸批評家とは何! と思います。文芸批評家の批評家の存在は認められるのか?
  阿刀田高氏は、【松本清張を推理する】のなかで、
  
「評論家ってのは、まことしやかなことを言っているけど、いつもフェアとは限らんぞ。
   私的な利害で作家をわるく言ったり、べたほめをしたり、アンフェアがあるんじゃないのか」

  【砂の器】(音楽評論家が作曲家と悪事を共有したとたん、評論家の論調が変わる)を取りあげて指摘している。
山本健吉氏の評論(批評)もゲスのカングリの外には置かれない。
さらに、大衆(読者)の評価は、ゲスのカングリをも吹き飛ばす真理があると思う。
作家が個人の枠にとらわれた私小説に埋没すれば、読者は置いてきぼりである。その意味で清張はその枠を壊して
文学なるものを大衆に解き放ったと言える。

三尺の児童でも分かる
三尺とは約90cm...小さな児童でも分かるの意味か?



讀賣新聞:1967/07/29   山本健吉→批判 
讀賣新聞:1967/08/08   松本清張→反論
讀賣新聞:1967/08/16   山本健吉→反論


2014年9月21日 記

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