なぜ!パンドラの過去か?
以下の投稿がありました
松本清張の不思議な新聞論文(邪馬台国論)
投稿者:inconnu
投稿日:2010年 1月10日(日)13時59分24秒
掲示板をご覧下さい
(一応、以下に全文を転記します)
松本清張の不思議な新聞論文(邪馬台国論)
松本清張氏は古代史において論述や発言が活発で、邪馬台国を論じた『古代史疑』は著名作です。推理小説の大家が本来の技を古代史へ
投入するのは興味深いのですが、氏はときどき、専門家はわれわれ素人の意見に見向きもしない、という趣旨の発言をされています。
その一つに、「ガラスの璧と伊都国」という論文があります(朝日新聞、昭和51年2月5日夕刊3面)。発言部分を引用します。
* * *
「一大率」の強権については、これまであまり学会でいわなさすぎる。ふれてはいても、あっさりとしている。
そのなかで、東洋史家栗原朋信氏の所論(実はわたしの主張への反論)は注目に値する。それは「史観」第70冊(昭和39年9月)に載った
「邪馬台国と大和朝廷」というかなり長い論文の中である。
「魏志が陳壽によって書かれているために、中国中心の観念で書いたので、主語を書き落したということは考えられ得ることである。しかし、
そうすると、『一大率』も、行文上からはまた魏が置いた官としてうけとらなければならなくなるが……」
これはあきらかに拙著「古代史疑」(昭和34年刊)を意識されての言い方である。なぜなら、倭人伝の潜在的な主語が魏であることも、
一大率が魏=帯方郡の派遣官だというのも、この拙著ではじめて発言したことだからである。栗原氏が対象とする書名も著者名もあげないのは、
ふしぎというほかはない。
しかし、これは非専門の一般研究者に対する専門学者の無視または蔑視的態度であって、ひとり栗原氏だけではない。
* * *
以上を整理すると、
(一)昭和34年、松本『古代史疑』
…一大率などについて論述。
(二)昭和39年、栗原「邪馬台国と大和朝廷」
…上記(一)の松本論述を無視して論述。
(三)昭和51年、松本「ガラスの璧と伊都国」
…上記(二)の「無視」を批判。
という流れになります。なるほど、専門学者が一般研究家を無視しているのでしょう。ところが、(三)の松本「ガラスの璧と伊都国」が掲載された
日の7日後に訂正記事が掲載されました(昭和51年2月12日夕刊3面)。それを引用します。
* * *
5日付文化面、松本清張氏の「ガラスの璧と伊都国」の文中、松本氏の著書「古代史疑」が昭和34年刊とあるのは、昭和43年刊の誤りでした。
従って、東洋史家栗原朋信氏が同39年9月に発表した論文「邪馬台国と大和朝廷」の中に無断で「古代史疑」をふまえて書いた部分があるという
松本氏の指摘は事実と相違しますので、この箇所を削除します。
* * *
この訂正記事に従って整理し直すと、
(ア)昭和39年、栗原「邪馬台国と大和朝廷」
(イ)昭和43年、松本『古代史疑』
(ウ)昭和51年、松本「ガラスの璧と伊都国」
松本『古代史疑』が昭和34年に刊行されたと考えたのは誤りで、(ア)の栗原「邪馬台国と大和朝廷」が最初なのだから、松本論述を無視、
というような議論が成り立たないのは、確かに訂正記事が述べるとおりです。
松本氏は、自著『古代史疑』の刊行が栗原「邪馬台国と大和朝廷」(昭和39年)より前の昭和34年だと思い込んだので、「無視」だと批判して
しまったらしい。ではなぜ松本氏は『古代史疑』の刊行が昭和34年だと思い込んだのか。
そこで、『古代史疑』を調べてみました。調べたのは21版で、奥付には、「昭和34年3月8日初版発行 昭和53年4月15日21版発行」と
表示されています。朝日新聞の訂正記事では、昭和34年刊は誤りで昭和43年刊が正しい、とありますが、この書の奥付では「昭和34年」で、
誤っていません。 ところが、この奥付をよく見ると、著作権を表示するC記号の西暦は「1968」となっています。これを元号換算すれば昭和43年で、
昭和34年と食い違います。つまり、一つの奥付に二つの年号が記載されているわけで、いずれか一方は誤植です。
正解を得るため、各版を調べました(いずれも古書店で入手)。初版、4版、8版、16版、17版、18版、19版、20版、21版の奥付は次のとおり。
* 初版「昭和43年 2月28日 初版印刷
昭和43年 3月 8日 初版発行」
* 4版「昭和43年 3月 8日 初版発行
昭和43年 4月 6日 4版発行」
* 8版「昭和43年 3月 8日 初版発行
昭和46年12月20日 8版発行」
*16版「昭和43年 3月 8日 初版発行
昭和49年 8月31日16版発行」
*17版「昭和34年 3月 8日 初版発行 ×××
昭和50年 8月 5日17版発行」
*18版「昭和34年 3月 8日 初版発行
昭和51年 2月 5日18版発行」
*19版「昭和34年 3月 8日 初版発行
昭和51年 6月25日19版発行」
*20版「昭和34年 3月 8日 初版発行
昭和52年 3月10日20版発行」
*21版「昭和34年 3月 8日 初版発行
昭和53年 4月15日21版発行」
いずれもC記号は「1968」。初版、4版、8版、16版では初版発行年とC記号とが一致しています。これが正しい発行年で、朝日新聞の訂正記事
どおり、『古代史疑』は昭和43年刊です。ところが、17版で誤植が生じ初版発行年が「昭和34年」となってしまったらしい(×××印)。以降の版でも
この誤植が続きます。 以上に基づいて経緯を推測します。
(1)松本清張『古代史疑』(中央公論社)は昭和43年に発行された。初版以降、16版までは奥付に正しい初版発行年が記載されていた。
(2)17版(昭和50年)において奥付に誤植が発生し、昭和34年初版発行と記載されるようになった。以降、少なくとも21版(昭和53年)までは
誤植が続いた。(3)松本氏は、「ガラスの璧と伊都国」(朝日新聞、昭和51年2月5日夕刊)を執筆するに際して、この誤植本の奥付を見、
『古代史疑』の発行が昭和34年であると思い込んだ。そのため、学者の「無視」を批判する文を右の「ガラスの璧と伊都国」に盛り込んだ。
なお、執筆時に氏が手にした版は、このころ出回っていたと思われる17版か18版でしょう。ただし18版は発行日が論文掲載日と同日付のため
執筆時に手にできたかどうか不明。 以上で松本氏の勘違い批判に説明がつきます。ところが、それで疑問が解けるわけではありません。
すなわち、
・昭和34年…新聞論文を執筆する17年前
・昭和43年…新聞論文を執筆する8年前
・昭和51年…新聞論文を執筆
というように、時間的な流れを見ると、新たに次の疑問が湧きます。
8年前に出版した本を17年前に出版したのだとする勘違いがあるでしょうか。10年であるところを8年や12年だと間違えることはあるでしょう。
しかし、今の場合、8年と17年です。たとえ眼前の本の奥付に「昭和34年」と明記されていても、反射的に、これはおかしい、と感じるのが普通なの
では…。著者自身にも印象の残りにくい作品ならともかく、『古代史疑』は著名作です。
なお、『古代史疑』は書き下ろし作品ではなく、『中央公論』の昭和41年6月号から昭和42年3月号まで連載(昭和42年1月号は休載)されたもの
の単行本化です。つまり執筆着手は昭和41年ですが、それでも昭和34年とは7年の開きがあり、小差ではありません。
10年前と17年前を混同することはないでしょう。
以上のとおり、不思議な現象です。もっとも、強いて真相を推理できないこともない。たとえば、
……松本氏は「昭和34年発行」で引っかかる(記憶と大差がある)から、「批判」へ進むはずがない。しかし、別人が執筆すれば、『古代史疑』の
出版時期について経験的記憶を持たないから、「昭和34年発行」という誤植を見ても疑問を起こさず、「批判」へ進んで行く。……
これは、こうであればつじつまが合う、というだけで、これ以外は何も考慮しない牽強附会にすぎませんので、合理的な推理があればお教えください。
素不徒破人の「返事」!
人間松本清張/inconnuさんへ
投稿者:素不徒破人
投稿日:2010年 1月10日(日)21時58分27秒
投稿有り難う御座いました。管理者の素不徒破人です。
合理的な推理は出来ませんが
はじめに“おや”と思ったことがあります。
>これはあきらかに拙著「古代史疑」(昭和34年刊)を意識されての言い方である。
の根拠が
>一大率が魏=帯方郡の派遣官だというのも、
>この拙著ではじめて発言したことだからである。
です。
朝日新聞の(昭和51年2月12日)夕刊3面の訂正記事
では以上の内容は解決しません。
東洋史家栗原朋信氏は「何かを意識された」上で「邪馬台国と大和朝廷」
の論文で清張氏の見解に反論を書かれたのか不明です。
結論は清張氏への反論では無いと言うことです。
それは清張以前に、「一大率が魏=帯方郡の派遣官」を主張していた
人がいたと言うことに繋がります。
inconnuさんの言われる時系列が正しいとすると(正しいと思います)
推理としては
1.単純な松本清張氏の思い違い(訂正で決着済み)
上記の疑問が残ります。
でも、専門家に限らず以前から「一大率が魏=帯方郡の派遣官」
が存在していた、とも考えられます。(清張氏は知らなかった)
2.ゴーストライター説
この推測は最終兵器です。
具体的根拠が無ければ、この種の推測は否定すべきだと思います。
作家平林たい子が
清張氏を「タイプライター」発言した時(昭和37年)
これに対して
「事務処理をする手伝いのひとが一人いるのみで、事実に反し、...
と発言、反論しています。
私なりの推測ですが
人間松本清張は時として過ちを犯します。
氏の自尊心の強さは時として自信過剰となり
思いこみから事実に反する反論となったと推測します。
inconnuさんの
>8年前に出版した本を17年前に出版したのだとする勘違いがあるでしょうか。
の反論にはなりませんが...
ちなみに
私の蔵書は20版です。
20版「昭和34年 3月 8日 初版発行
「昭和52年 3月10日20版発行」
発表年月日が「中央公論」
1966年(昭和41年)6月号〜1967年(昭和42年)3月号
誤植は明らかです。
本題です!
松本清張のファンを自認する私は、清張批判には敏感です。
しかし
無批判に清張氏を賞賛するつもりはありません。
清張氏に無謬を要求するつもりもありません。
すでに亡くなっていますので「過去」を見つめる時
人間松本清張は批判されるべき過去があるのかも知れません?
その個性的で、自負心の強い人柄は時として「問題」を起こされた事もあるようです。
この「パンドラの過去」はそんな清張氏の言動にスポットを当ててみようとする試みです。
発端は
上記の投稿です。
投稿者のinconnuさんの疑問は
以前私が「素不徒破人渾身の問題提起(笑)「春の血」と「再春」」で取り上げた問題とも共通する
問題を含んでいると思います。
それは、触れられたくない過去
いったん触れると「取り返しの付かない過去」かも知れません。
松本清張事件簿
それが
パンドラの過去?(箱)
です!
準備不足で実際の開始は4月?かな...
2010年3月20日 記
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