研究室_蛇足的研究

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2026年04月21日


清張作品の書き出し300文字前後で独善的研究!




研究作品 No_182
遠くからの声


〔新女苑〕
1957年(昭和32年)4月号


民子が津谷敏夫と結婚したのは、昭和二十五年の秋であった。仲人があって、お見合いをし、半年ばかり交際をつづけ、互いに愛情をもち会って一緒になった。愛情は民子の方がよけいに彼に傾斜したといえる。その交際の間、民子の妹の啓子は、時々、姉に利用された。民子の家庭は割合にきびしい方だったから、民子が敏夫と会うのに、そう何度も実行するのは気が引けた。その場合に啓子は利用された。一人で外出はいけないが、二人なら宥される。そのような家庭であった。民子と敏夫の会合は銀座へ出てお茶を飲んだり、食事をしたり、映画を見たり、そんな他愛のないものだったが回数の半分は啓子が必要であった。姉にとって邪魔な存在だったが、家を出るときには重宝だった。啓子は食事でも勝手な注文をつけ、映画も自分の好みを主張した。「利用の報酬としては当然の支払いよ」と云った。散歩するときでも姉たち二人を先にやるという心遣いは無く、いつも敏夫を真ん中にして並んで歩いた。啓子が居る限り、民子は敏夫と二人で居られるという意識の流れは寸分も無く、いつも啓子が対等に割り込んできた。その時、啓子は女子大を卒業する前の年であった。
民子が登場した。
けものみち」で民子を取り上げたが、追記で書いた通り、「遠くからの声」に民子が登場することが分かり急遽俎上に載せた。
冒頭の記述だけで、「民子」・「啓子」・「敏夫」の関係が不安な要素として浮かび出ている。
民子が津谷敏夫と結婚するが、前途多難を予感させる。
二人の間に啓子が割り込むであろう展開が読み取れる。

時代は昭和25年(1950年)
1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発し、日本には「特需」と呼ばれる膨大な需要がもたらされました。これにより経済が活性化し、建設活動も活発になりました。

民子に比べ啓子は積極的な人物で、姉に気を遣うようなタイプではなさそうだ。
>啓子は女子大を卒業する前の年であった。
と書かれているが、当時女子大とはかなりの高学歴と言えるのではないだろうか?
●昭和女子大学の沿革●
昭和25年4月 (1950), 昭和女子大学短期大学部を開学玉井幸助が初代短大学長に就任日本女子高等学院を改組し、
高卒女子の専門教育機関「昭和女子学院」(=後に廃止)を設立.
●日本女子大学の沿革●
1949(昭和24)年. 日本女子大学通信教育部開講。 1950(昭和25)年. 文学部に教育学科を増設。
1951(昭和26)年. 財団法人日本女子大学校の学校法人日本女子大学への改組

女子大が続々誕生した時期でもあるようだ。