| 研究室_蛇足的研究
2026年04月21日 |
清張作品の書き出し300文字前後で独善的研究!
研究作品 No_181 【転変】 シリーズ作品【大奥婦女記】の第八話 〔新婦人〕 1955年(昭和30年)10月〜1956年(昭和31年)12月 |
| 綱吉には遂に男子の出生がなかった。そればかりか、たった一人娘で紀州家に輿入れした鶴姫も、流行の麻疹で病死した。隆光ははじめ諸僧の加持祈祷も、迷信による生類憐みの法令も、何らの効も無かった。あらゆる手段も今は虚しいものとなった。綱吉も、すでに五十九歳である。もはや、子を得ようとする望みは絶たれた。桂昌院、お伝の方、右衛門佐局、北の丸殿の絶望はもとよりのことだった。この上は、世子として養子をとるほかはなかった。自分の実子に世を譲れないのは残念の極みであるがこればかりは致し方ない。養子をするとなれば、一番身近な者からとるということになる。ここで甲府宰相左馬頭綱豊能線が浮かび上がった。彼は綱吉の従弟であるから、最も血が近いのである。だが、綱吉は元来、この綱豊が好きでなかった。しかし六十近くなった彼は、実子がないとなると、好き嫌いは云っていられなくなった。ようやく老境に入った彼は、早急に世子を決定する必要から、己の感情ばかり云っていられないのである。 |
| 綱吉に男子の子どもが出来なかった。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 父母 父:徳川家光●母:玉(桂昌院) 養父:徳川家綱 兄弟 千代姫、家綱、亀松、綱重、綱吉、鶴松 妻 正室:鷹司信子(鷹司教平の娘) 側室:瑞春院(伝)、寿光院、清心院、他 子 :鶴姫・徳松 養子:家宣、八重姫(徳川吉孚室)、喜知姫(徳川綱誠の娘)、松姫(前田吉徳室)、竹姫(島津継豊継室) 猶子:尊統法親王 徳川 綱吉(とくがわ つなよし)は、上野・館林藩初代藩主、江戸幕府の第5代将軍(在職:延宝8年(1680年) - 宝永6年(1709年))。 第3代将軍・徳川家光の4男。館林徳川家初代。 ●綱吉の生涯 将軍になるまで 3代将軍・徳川家光の4男として正保3年(1646年)1月8日、江戸城に生まれる。幼名は徳松(とくまつ)。 慶安4年(1651年)4月、三兄の長松(のちの徳川綱重)とともに賄領として近江、美濃、信濃、駿河、上野から15万石を拝領し家臣団を付けられる。 同月には家光が死去し、8月に長兄の徳川家綱が将軍宣下を受ける。 承応2年(1653年)8月に家綱の右大臣昇進にあわせて2人の弟は元服し、偏諱(「綱」の字)を受けて長松は綱重、徳松は「綱吉」とそれぞれ名乗った (「松平右馬頭綱吉」と松平姓を称したとされる)。 男子が居なかったとされる綱吉だが、徳松が居るではないか? ●徳川徳松 徳川 徳松(とくがわ とくまつ)は、江戸時代前期の大名。上野館林藩主。徳川綱吉の長男で、綱吉の江戸幕府第5代将軍就任に伴って将軍家世子となるが、夭折した。 徳松は夭折(ヨウセツ)したようだ。夭折とは正確な定義はないが、十代での死亡らしい。 綱吉が五代将軍、六代将軍が家宣(幼名は綱豊)。 ![]() 書き出し部分は、綱吉から家宣に変わる時代の話しとして綴られるようだ。 |