研究室_蛇足的研究

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2021年10月21日


清張作品の書き出し300文字前後で独善的研究!




研究作品 No_122
球形の荒野

芦村節子は、西の京で電車を下りた。ここに来るのも久し振りだった。ホームから見える薬師寺の三重の塔も懐かしい。塔の下の松林におだやかな秋の陽が落ちている。ホームを出ると、薬師寺までは一本道である。道の横に古道具屋と茶店をかねたような家があり、戸棚の中には古い瓦などを並べていた。●蔵書【松本清張全集 6 球形の荒野・死の枝:「オール讀物」1960年(昭和35年)1月号〜1961年(昭和36年)12月号
〔オール讀物〕
1960年(昭和35年)1月号〜1961年(昭和36年)12月号



芦村節子は、西の京で電車を下りた。ここに来るのも久し振りだった。ホームから見える薬師寺の三重の塔も懐かしい。塔の下の松林におだやかな秋の陽が落ちている。ホームを出ると、薬師寺までは一本道である。道の横に古道具屋と茶店をかねたような家があり、戸棚の中には古い瓦などを並べていた。節子が八年前に見たときと同じである。昨日、並べた通りの位置に、そのまま置いてあるような店だった。空は曇って、うすら寒い風が吹いていた。が、節子は気持ちが軽くはずんでいた。この道を通るのも、これから行く寺の門も、しばらく振りなのである。夫の亮一とは、京都まで一緒だった。亮一は学会に出るので、その日一日その用事に取られてしまう。旅行に二人で一緒に出るのも何年ぶりかだ。彼女は、夫が学会に出席している間、奈良を歩くのを、東京を発つときからの予定にしていた。薬師寺の門を入って、三重の塔の下に立った。彼女の記憶では、この前来たときは、この塔は解体中であった。そのときは、残念がったものだが、今は立派に全容を顕わしていた。いつも同じだが、今日も、見物人の姿がなかった。普通、奈良を訪れる観光客は、たいていここまでは足を伸ばさないものである。
「西の京で電車を下りた」たって事は、「西の京」は駅名?
※西ノ京駅(にしのきょうえき)は、奈良県奈良市西ノ京町にある、近畿日本鉄道(近鉄)橿原線の駅。
そのまま駅名だった(西の京駅の「の」は意識的に書き分けたのか?)
例によって、地図で確認。コースは赤線で示した通りだろう。



夫が京都の学会へ出席。
その間での奈良の観光旅行。芦村節子のウキウキした気分が、「節子は気持ちが軽くはずんでいた...」でよく現れている。
夫の名前は亮一。何年かぶりの夫婦での旅行だが、夫婦円満ぶりが感じられる。
薬師寺への参詣は東京を出るときからの予定だった。
>薬師寺の門を入って、三重の塔の下に立った。
とあるが、どこの門なのだろうか?南門なら三重の塔までは近いが、駅からの関係では遠すぎる。
興楽門とすれば、三重の塔まで少し距離があるが、駅からの関係では興楽門だろう。

>普通、奈良を訪れる観光客は、たいていここまでは足を伸ばさないものである。
と、書かれているが、奈良まではそんなに遠くない。
※西ノ京駅から近鉄奈良駅まで20分弱である。





●薬師寺
享禄元年(1528)の兵火は激しく、金堂、西塔、大講堂などが焼失しました。そのなかで唯一創建時から現存するのが東塔【国宝】です。

お写経勧進による白鳳伽藍復興を始めました。
一巻千円(当時)のご納経料をいただき、百万巻のお写経を勧進して金堂復興を目指しました。
昭和51年(1976)に目標の百万巻を達成し、金堂が落慶されました。

節子が昔行ったとき(八年前)、塔は解体中だった。のは、1960年代だと考えられる。
今回の旅行の時期は落慶後なのだから、1980年代だと考えられる。

作品の発表時期が、『オール讀物』 1960年(昭和35年)1月号〜1961年(昭和36年)12月号なので、
少しズレている。三重塔が「今は立派に全容を顕わしていた。」ので、書かれて時期(1960年)になぜ???の疑問が残る。
ただ、時代設定が正確には分からない。調べてみよう。それから、三重の塔の改修時期が不明だ。これも調べてみよう。
さらに、三重の塔は東西にある。どちらなのだろうか?

  

●三重の塔(東の塔・西の塔)紹介
薬師寺は、日本で初めて東西に二つの塔を建立した双塔式伽藍として有名です。東塔(国宝)は創建当初から残っていますが、
西塔は享禄の兵火(1528)により焼失してしまいました。
昭和56年(1981)に再建された西塔は、 長年の風雨にさらされ落ち着いた東塔に対して、
創建当初とおなじく鮮やかな青丹の色と金色の飾り金具に彩られて美しいコントラストをみせてくれます。 

※ますます分からなくなった。
作品が書かれた時期が、1960年(昭和35年)1月号〜1961年(昭和36年)12月号なので、
今は立派に全容を顕わしていた。
時期は、三重の塔は再建後のはずである。1960年以前が小説の舞台の設定であるはずである。

●明治以降の薬師寺 〜再建の歴史〜 【奈良まちあるき風景より】
明治維新以降の薬師寺は、第二次世界大戦が終わり、戦後しばらくまでは江戸時代と変わらないような建物の配置が続き、
やや寂しい状況が続いていました。
また、終戦前年の1944年には地震により一部の建築物が倒壊する被害を受けることにもなりました。

しかし、昭和中期頃、高度成長期以降からは薬師寺は急速に再建・復興への道筋を歩み始めます。
薬師寺の「高田好胤」管長はその独特のキャラクターもさることながら、檀家を持たない大寺院として仏教建築の
「再建」を行うための手段として、「写経勧進」というユニークなシステムを生み出しました。
講演や展覧会などの場で写経をしてもらう代わりに、1000円ほどの勧進を行ってもらう。
そんな親しみやすい勧進を生み出した好胤管長ですが、結果としては300万人を超える人々から寄付を集めることになり、
昭和51年(1976年)には金堂が再建され、昭和56年(1981年)には西塔が再建されるなど、主要な巨大建築が次々に
再建されていくことになったのです。
また、平成に入ってからは独特の風情で知られる「玄奘三蔵院伽藍」が復興され、平成15年(2003年)には
講堂も再建され、現在は「食堂」が完成する運びになるなど、復興・再建の歩みは着実に進み続けています。

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多少調べたが、【今は立派に全容を顕わしていた。】三重の塔はいつ再建されたのだろう....分からない???

小説の内容に踏み込む前に変なところでひかかってしまった。長編小説独特の書き出しとも言えるゆったりとした書き出しで
今後の展開は想像が出来ない。