研究室_蛇足的研究

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2021年08月21日


清張作品の書き出し300文字前後で独善的研究!




研究作品 No_121
〔彩色江戸切り絵図・六話〕
女義太夫

「ああ、疲れた」と、女は舞台から楽屋に戻るなり紫ぼかしの肩衣を脱ぎかけた。客席のざわめきがまだつづいていた。この寄席は女義太夫がトリだったので、竹本巴之助への喝采と、木戸口に出る客の足音とが、狭い小屋の中にひびいていた。●蔵書【松本清張全集 24 無宿人別帳・彩色江戸切絵図/紅刷り江戸噂】:「オール讀物」1964年(昭和39年)11月号〜12月号
〔オール讀物〕
1964年(昭和39年)11月号〜12月号



「ああ、疲れた」と、女は舞台から楽屋に戻るなり紫ぼかしの肩衣を脱ぎかけた。客席のざわめきがまだつづいていた。この寄席は女義太夫がトリだったので、竹本巴之助への喝采と、木戸口に出る客の足音とが、狭い小屋の中にひびいていた。巴之助は、付人お梅に肩衣をはずさせ、袴の紐を解かせた。高座を引立せるため厚化粧した白い顔の中の、その結上げた髪と同じような黒い眼は半閉じになっていた。飾りの付いた簪もお梅がはずした。「太夫」と、この寄席の番頭をしている藤吉が云った。「今夜の出来は、また一段と冴えていたぜ。何度聞いても、太夫の声と節回しは惚れ惚れしますよ」「そりゃそうですよ、藤吉さん。出しものが十八番のおさん茂兵衛ですからね」「客席もしんとなっていました。あれじゃ。さすがの竹本秀勇も顔色なしというところでさア」「ふん、秀勇さんかね。あの人に芸ってものがあるのかね?ただ年が若くて子供みたいな顔をしているというだけじゃないか。太夫の磨きこんだ芸にかなうものですか」肩衣をたたんでいるお秋が口を尖らせて云った。
竹本巴之助は、女義太夫語りか?(浄瑠璃語り)
楽屋話か太夫の取り巻きが、竹本巴之助を誉める。
比較される相手は、竹本秀勇。
直感的には、二人の義太夫語りの確執が物語の縦線になるのだろう。


義太夫節
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
義太夫節(ぎだゆうぶし)とは、江戸時代前期、大坂の竹本義太夫がはじめた浄瑠璃の一種。
略して義太夫(ぎだゆう)ともいう。国の重要無形文化財。

竹本義太夫
大阪超願寺にある竹本義太夫の墓。
竹本義太夫(たけもとぎだゆう、慶安4年〈1651年〉 - 正徳4年9月10日〈1714年10月18日〉)とは、
江戸時代の浄瑠璃語り。義太夫節浄瑠璃の創始者。本名五郎兵衛、初期には清水五郎兵衛と名乗る。のちに竹本筑後掾と称した。

義太夫、とりわけ女義太夫とは...
竹本名は創始者で一般的である。女義太夫でも竹本性が主流で豊竹、鶴澤性などがある、特定の人物がモデルではなさそうで
巴之助や秀勇の名は見当たらない。

女義太夫
女性による義太夫語りは、江戸後期の文化文政ごろからおこなわれていたが、
水野忠邦の天保の改革で女芸人が禁止されると廃れていった。
この時代は寄席にも出してもらえずに、よしず張りの小屋(ヒラキ)で興行をしていて、
「女義太(たれぎだ)」などと呼ばれて軽んじられていた。