研究室_蛇足的研究

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2019年7月21日

清張作品の書き出し300文字前後で独善的研究!


研究作品 No_098

 歌のない歌集:第一話数の風景


研究発表=No 098

歌のない歌集(第1話)【数の風景】
 〔朝日新聞:1986年(昭和61年)3月7日号〜1987年(昭和62年)3月27日号〕

板垣貞夫は東京から米子空港に午前十一時ごろに着いた。着陸の前、厚い雲の下から現れた街は白く、大山は裾野のほうだけぼやけている。夜見ヶ浜の海は黒い。蔵書【数の風景】:朝日新聞社/週刊朝日連載1986年(昭和61年)3月7日号〜1987年(昭和62年)3月27日号

板垣貞夫は東京から米子空港に午前十一時ごろに着いた。着陸の前、厚い雲の下から現れた街は白く、大山は裾野のほうだけぼやけている。夜見ヶ浜の海は黒い。一月の末である。松江に入り、決められた旅館の名をタクシーの運転手に云うと、そこは城山公園の近くで、濠端沿いだった。ここを指定したのは、明日大森の石見銀山跡を案内する太田市の有志だった。板垣の職業は土木建築関係の設計士で、自分の事務所を持ち、二,三の大手土建会社の顧問もしている。お城の天守閣も松林も雪はうすい、昼食を終わって、予定どおり鰐淵寺へ行くことにし、宿にタクシーを頼んだ。鰐淵寺は宍道湖の北西岸の平田市にあるが、西へかなり離れている。市内から出雲大社まで行く一畑電鉄の途中、平田市駅からバスが出ているが、案内書によると、一日一便というから、車で行くしかない。

具体的な場所が詳細に説明されている。
松江城の「濠端沿い」に、『緑の宿北堀』と言う名の料理旅館があった。
ホームページで見ると、いかにも小説に登場しそうな、趣のある旅館だ。

  

※松江城(まつえじょう)
   5層6階の天守閣と石垣を残し、桃山初期の城郭様式を持っている。天守閣は国の重要文化財に指定されている。
   千鳥城とも呼ばれる。


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●鰐淵寺(がくえんじ)
住所:〒691-0022 島根県出雲市別所町148



(1)一畑電鉄雲州平田市駅からバスで20分(路線バス鰐淵線)
鰐淵寺駐車場から徒歩で15分
(2)山陰道斐川ICから車で35分
鰐淵寺駐車場から徒歩で15分

●鰐淵寺の歴史
草創と修験行場としての発達

伝承では推古天皇2年(594年)、信濃の智春上人が当地の浮浪の滝に祈って推古天皇の眼疾が平癒したことから、同天皇の勅願寺として建立されたという。寺号の鰐淵寺は、智春上人が浮浪の滝のほとりで修行を行っている際に誤って滝壺に落とした仏器を、鰐がその鰓(えら)に引っ掛けて奉げたとの言い伝えから生じた。ここで言う「鰐」はワニザメを指すと言われる。なお、出雲市東林木町(ひがしはやしぎちょう)の万福寺(大寺薬師)も同様に推古天皇2年、智春の開山を伝えている。以上はあくまでも伝承であり、創建の正確な時期や事情は明らかでない。鰐淵寺の所在する島根県や隣の鳥取県は修験道・蔵王信仰の盛んな土地であり、当寺も浮浪の滝を中心とした修験行場として発展したものと思われる。浮浪の滝は鰐淵寺の入口から渓流を500メートルほどさかのぼった地点にある。水量は少なく、滝壺の奥には蔵王堂が建つ。

後白河法皇の『梁塵秘抄』に収録された今様に「出雲の鰐淵や日の御碕」と歌われており、平安時代末期頃には修験行場としても発展し日本全国に知られるようになったものと思われる。


雲州平田市駅とされているが、平田市が出雲市と合併したため、『雲州平田駅』と改名されている。

地図から見てもかなり不便なところだ。
職業は土木建築関係の設計士である板垣の目的は「鰐淵寺」なのだろうか?
太田市の有志に石見銀山跡を案内される目的で松江城の近くの旅館に宿泊するようなので、
むしろ目的は石見銀山跡で、太田市の有志に合うことが目的のようだ。
ついでの「鰐淵寺」訪問が事の発端なのか。

【帯】高圧送電線下の土地は地価高騰の時代の盲点だった。石見銀山をめぐる二つの殺人事件を解く鍵は「数」。
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