研究室_蛇足的研究

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2016年03月21日

清張作品の書き出し300文字前後で独善的研究!


研究作品 No_071

 【くるま宿


研究発表=No 071

【くるま宿】 〔富士〕 1951年(昭和26年)12月号

柳橋に近い“相模屋”という人力車の俥宿だった。明治九年のことである。人力車の発明は明治二年ごろということになっているが、そのころにはもう相当普及していた。 【松本清張全集 35 或る「小倉日記」伝・短編1】より

柳橋に近い“相模屋”という人力車の俥宿だった。明治九年のことである。人力車の発明は明治二年ごろということになっているが、そのころにはもう相当普及していた。はじめ俥の胴に蒔絵で、金時や、児雷也や、波を描いて美麗を競ったが、これはまもなく廃れて、そのころでは車体も紅無地で、蹴込みも深くなり、母衣(幌)の取付けも工夫されてだいたい後代のものに近い体裁になっていた。
古い統計によると、この年の人力車の数は全国で十三万六千七百六十二両と記載されている。その過半が東京であった。俥宿は帳場ともいい諸所にあったが、それぞれ屋号の名がついていた。車夫は夜”人力、何屋”という印入りの提灯を梶棒の先に吊って、ラッパもない時代のことで、「ごめん、ごめん」とかけ声をかけて走ったものである。

                   研究
はじめは人力車の説明だ。
※Wikipedia(ウィキペディア)によると
人力車(じんりきしゃ)とは、人を輸送するための人力による車。
横に並べた2つの輪を持つ車に乗客を乗せ、俥夫(しゃふ)がこれを曳くという構造をしていた。
手押し車のように後ろから押すことによって進む車もあった。
日本では、主に明治から大正・昭和初期に移動手段として用いられた。人力俥とも表記する。




「くるま宿」は、「西郷札」に続いて実質的には2作目の作品である。
「西郷札」の主人公は、車夫として登場し人力車も重要な場面で活躍した。
そして2作目がズバリ「くるま宿」。時代も明治初期、なにやら共通点があるようだ。
「西郷札」では【山辰】...「くるま宿」では、柳橋に近い【相模屋】

芥川賞受賞後の作品だが、発表が「富士」となっている。
これも、※Wikipedia(ウィキペディア)だが
キングは、戦前の日本において大日本雄辯會講談社(現・講談社)が発行した大衆娯楽雑誌である。
1924年11月創刊、1957年廃刊。
戦前の講談社の看板雑誌であるとともに、日本出版史上初めて発行部数100万部を突破した国民的雑誌である。
1943年(昭和18年)には、「キング」が敵性語であるという理由で『富士』に改題された
(改題からしばらくの間は、「キング 改題 富士」と表記されていた)。
またキングレコードも同様に、『富士音盤』と変更された。