紹介作品 No_135  【愛犬】


 

紹介作品No 135

【愛犬 【小説新潮】1978年(昭和53年)2月
おみよさんは京橋近くの会席料理店「初音」の会計係をつとめている。店は、こぢんまりしたビルの七階と八階の全フロアを占めていた。「初音」はいい客をもっていた。商社も一流どころのが使ってくれていた。おみよさんがこの店にきて八年になる。入ったとき二十七歳だったが、その容貌から会計係で置くのは惜しいので、二年ぐらいして座敷に出るように店主から言われたけど、とうとう銀鼠の着物を断った。銀鼠の着物はお座敷女中のお仕着せである。店にはそういうのが三十人ばかりいて、全部通いであった。おみよさんは色白のふっくらした顔立ちで、眼が大きい。唇の少し厚いのが難だが、口紅をせまく塗っているので、それほど目立たない。笑うと八重歯がこぼれる。お座敷女中には、若さといい、容貌といい、彼女ほどの女はそれほど居ないので、店主が彼女を座敷に出したがるのも無理はなかった。た●蔵書【隠花の飾り】新潮社●「小説新潮」1978年(昭和53年)2月号

おみよさんは、会席料理店「初音」の会計係。
「初音」に務め始めて8年になる。入店時は二十七歳だった。
色白でふっくらした顔立ち、大き眼、唇が厚いのが難だったが、笑うと八重歯がこぼれて愛嬌があった。その容貌からお座敷女中として座敷に出ることを店主から言われたが断った。お座敷女中は、銀鼠のお仕着せの着物姿で働いていた。全部で三十ばかり通いだった。
店主が座敷に出したがる容貌で、会計係の彼女のに会計の隙に声をかけ誘う者もいた。

会計係は二人居て、早番、遅番と交代でやっていた。もう一人はおみよさんと同じくらいの歳だが、先輩が辞めた後釜で入ってきた。
いかつい顔の肥った身体だった。
おみよさんは、浅草橋の近くに住んでいて、植木職人の残してくれた家で、一人暮らしだった。母は死んで、姉は広島の方へ嫁いでいた。
おみよさんは、二十二歳で結婚し、三年後に離婚した。相手は、平塚市の農家の息子で地方公務員をしていた。
義母は、早く死んでいなかった。父親と妹二人。父親は畑仕事をしていた。かなりの土地を持っていて裕福だった。
義理の上の妹にいじめられた。一つ年上だったが、まだ思わしい縁談もなく、母が早く死んだせいもあり、主婦代わりで家の中のことは切り盛りしていた。
前からのしきたりとか言って、おみよさんの夫の給料まで取り上げ、所帯を取り仕切っていた。
父親も財産があるにしては吝嗇で生活費を自ら出すことはなかった。畑仕事には嫁のおよさんを使った。
おみよさんの結婚生活は愉しいものではなかった。
>役所から帰った夫におみよさんが愬えても、眉間に気の弱い縦皺をつくるだけであった。その痩せた貧弱な身体が表すように、妻をかばって父親や妹二人に
>立ち向かう勇気は彼になかった。困ったことに、おみよさんはこの優柔不断の夫を励ますほどの愛情を持っていなかった。

結婚生活の破綻は目に見えるようだ。

おみよさんの母が生きていた頃、実家に帰った原因は犬のことだった。おみよさんは犬好きであった。
舅や小姑に気兼ねをしながら柴犬を飼っていた。
二人の妹はこの犬を嫌悪した。
始めは犬に対して、臭いだとか、鳴き声に文句を言っていたが、次第にエスカレートして、おみよさん自体に犬への憎悪が向かって行った。
虐待されたであろう犬は線路脇の側溝で死体で発見された。
泣きながら、犬の死骸を葬り、泣き顔のままで実家に帰った。母は、泣き顔の原因が犬とは知らずに、それほど苦労するのなら婚家に戻らなくていいと言いきった。

「初音」で働き始めてからも、おみよさんは犬を飼った。それまでに、二度死なせてしまった。
犬との関わりを辞めようとしたが、生来の犬好きで、血統書付きの柴犬を買ってきた。
おみよさんにとっては三代目の飼い犬で、「サブ」と名を付けた。飼った三頭とも雄犬だった。
「サブ」が、異常を示した。通行人に対して吠えるのである。地元の住民は余り通らない小路を夜明けに通る時に吠えるのである。
その吠え方にも次第に変化が現れた。唸り声だけになりやがて反応しなくなった。足音は片方の足に重心が掛かったような、特徴ある歩き方だった。
近所で人妻が殺された。

やがておみよさんの住まいは、マンションの開発で買収された。手に入れたお金で、淺草の方に一軒家の家を買った。それは犬のためでもあった。

おみよさんに恋人が出来た。
伊東という男で、「初音」に客として出入りしていた。伊東は学生時代にラグビーをしていた肩幅の広いがたいのいい男だった。
最初は、簡単な食事をしたあと、伊東の後について行き、それ専門のホテルに入るようになった。

運勢暦で言うと伊東は、「一白水星」おみよさんは「三碧木星」で相性が良いらしい。運勢暦は、おみよさんが最初に、犬を飼っていた頃から気にしていた。
伊東に結婚を申し込まれるが、離婚歴もありそのままになっていた。

犬には独特の臭覚がある。
二人が会った後、家に帰ると、「サブ」の様子が違っていた。
>おみよさんの体を執拗に嗅ぎまわり、そのあげくにそこに裏切り者でも居るように吠え立て、本気で咬みつかんばかりに怒るのである。

「サブ」は、おみよさんの気持ちが分かるらしく、おみよさんと伊東のデートの時は嫉妬に燃え、攻撃的な姿勢を見せるのだった。
>...あんたヤキモチを焼くんじゃないわよ、わたしの仕合わせをよろこぶのよ...
おみよさんは嫉妬に燃える男を説得するように声にだして、「サブ」に言い聞かせた。

おみよさんと伊東の仲は深まっていく。
五日間の休みを取って鹿児島に遊びに行くことになった。
「サブ」の事が心配なみよさんは、近所の主婦に犬の食事の世話を頼み、旅に出かけた。

おみよさんは、鹿児島で一夜を伊東と共にしたが、「サブ」の事が気になり、朝までまんじりとも出来なかった。
>伊東の濃い愛情よりも、おみよさんは家に置いてきたサブのほうが気になった。

おみよさんはすぐに帰ると伊東に告げた。
その理由を詰問する伊東。伊東は恋人として当然「ぼくと犬とどっちを愛しているのか」の台詞になって、ただ泣くだけのおみよさんを見ていた。
凝視するその眼は、冷ややかなものに変わっていた。
二人の関係は終わった。伊東はおみよさんの前に姿を現さなくなり、電話もしなくなった。

一年も経過しないうちに、おみよさんい新しい恋人が出来た。
高島という五十歳になる男だ。やはり「初音」に出入りする客だった。
高島は結婚していて、一流商社の局長だか部長をしていた。
結婚の望みはないが、若い伊東の身体で開発されたおみよさんには、中年で老練な男が必要だったのかも知れない。
>...伊東のときは、カレーライスやかけそばをあわただしく胃におさめて安ホテルに入ったものだが
>高島氏は名の通ったレストランでフランス料理などをとるか、割烹店でうまいものを食べるかしたあと、タクシーで高級なラブホテルに...


高島の奥さんは病状で、殆ど寝たきりということだった。
ここでも運勢暦が出てくる。高島は「九紫火星」。「三碧木星」とは、吉といったところだった。

「初音」では、おみよさんが綺麗になったともっぱら評判だった。
もちろんみんなは、二人の仲を知ってはいない。
「サブ」は、知っていた。
伊東の時と同じような反応をする。唸りながら爪で引っ掻いた。引っ掻き傷は太ももについた。
場所が場所だけに、高島に「サブ」の事を話した。高島は大笑いして、ぼくも犬が好きだよと付け加えた。
これで二人の仲は長続きするだろうとおみよさんはうれしくなった。

高島との仲が、半年は続いたであろう時、杉原工業所から人が来た。杉原工業所は水道工事専門店で、この家を買った時台所回り改修を頼んだ店で
最近蛇口の具合が悪くて修理を頼んでいた。やっときてくれたのだった。修理工の男は三十六,七歳、眼のくぼんだ頬の落ちた痩せた男だった。
「サブ」の様子が変だった。低く唸っていた。「サブ」は、初めての新聞の集金人にはけたたましく吠えるのだが、修理工には違った。
修理工は、おみよさんを見て、ギクッとした眼をした。おみよさんは気がつかなかった。

修理工は、タクシーの運転手が本業で、休みを利用してアルバイトをしているのだと聞きもしないのに話した。
>一ヵ月前の晩にラブホテルの前で拾ったタクシーが自分の運転していた車だと言った。
タクシーはおみよさんを降ろした後、高速道路を利用して中野の方まで行った。男は高島の家の前まで行き降ろしたのである。
修理工で、タクシーの運転手の言動は、特殊な目的を持っていることは明らかになった。
特殊な目的を告げると、男はおみよさんに手を出そうとした。それに「サブ」は反応し、吠えた。その場は男も諦めたが、明後日の晩にね...念を押して帰った。

明後日の晩、覚悟を決めたおみよさんは男を待った。
男の靴音が聞こえてきた。それは浅草橋に住んでいた時のことで、「サブ」がその足音に反応してけたたましく吠えた時のことだった。
近所で人妻殺しがおきて、その後は足音も聞こえなくなり、「サブ」も何も反応しなくなった。
あの時と同じ足音だった。
理由をつけて家を出て110番をした。

中程度の吉も当てにならない。高島との別れを予感したおみよさんの結論だった。



※運勢暦
九星早見表
一白水星 九年に一度の最悪本厄。何もしないで人に従うのが最良。従う気持ちになる事を祈る事。
二黒土星 来年は好し。されど今年は後約的危険
三碧木星 九年に一度の好機会 向こう三年弱徐々に良し。節分までに神仏を祈祷すれば幸運を得る。
四緑木星 絶好調 調子に乗らず神仏を祈り、来年の「八方塞がり」を意識する事
五黄土星 八方塞がり 人の口により、今までの秘密悪事がばれる。悪口を言われないよう祈る事。
六白金星 満年齢 数齢の数字が並ぶ年は注意 思わぬ事で悪い事が起こる。
七赤金星 悪いも良いも半々
八白土星 金運は良いが、内気と強気のコントロールを知らずにチャンスを潰す。
九紫火星 良いも悪いも半

※犬は聴覚で足音を聞き分けるのではなく、発達した臭覚によって特定の人間の体臭を遠くからでも嗅ぎ分け、一旦覚えると五年くらい経っても忘れないらしい。
  ●聴覚
   犬の聴力は人の約4倍もあるため、人には聞こえない高い音でも聞くことができます。
   高い音のほうが好感を持ちやすいといわれており、男性よりも女性に懐きやすいのは声が高いからだといわれています。
  ●臭覚
   犬の鼻は最も発達している器官で、嗅覚は人間の100万倍も優れているといわれています。
   犬はその優れた嗅覚を使って、警察犬や検疫探知犬、災害救助犬などとして活躍しています。
   犬同士はお互いのお尻の匂いを嗅ぎ合って挨拶しますが、その際に相手の食べている物や健康状態などの情報もわかるそうです。

この作品は犬の特性に目を付けて作品が構成されていると思います。
清張作品には動物に限らず、植物(生息地等)とか、人間の特殊な能力(職業として身についた能力)がテーマにされている場合があります。
「声」は、電話交換手の、声を聞き分ける能力が事件の謎を解きます。
「Dの複合」は、計算狂の女(坂口まみ子)が、狂言廻しの役目をしている。
まだ、他にもいろいろありそうですが、チョット思いついただけです。

登場人物の氏名が簡略に書かれている。男達は名字だけ。



登場人物

おみよさん 割烹料理店「初音」のレジ係。入店のときは、27歳。色白でふっくらした顔立ち、大き眼、唇が厚いのが難だったが、笑うと八重歯がこぼれて愛嬌があった。
その容貌から、店主はお座敷女中を薦めたが、断った。客からイロイロ声をかけられる存在だった。犬好き。離婚歴があった。
伊東 「初音」に出入りする客だったが、おみよさんと仲良くなる。学生時代にラグビーをしていた肩幅の広いがたいのいい男だった。
鹿児島へ旅行に行くことになるが、犬の「サブ」が心配なおみよさんは帰ると言い出す。理由を聞いてあきれる。別れることになる。
高島 一流商社の局長だか、部長職。50代くらい。会計係のおみよさんに声をかけ、いい仲になる。既婚者だが、妻は病弱で伏せっていた。
修理工 水道工事会社(杉原工業所)の修理工。たまたま、おみよさんの家の水道の修理に行く。修理工はアルバイトで、タクシーの運転手が本業。
タクシーの運転手をしていたとき、高島とおみよさんのデート帰りに乗客として乗せる。脅迫をして手に入れようとする。人妻殺しの犯人かも知れない。

研究室への入り口