紹介作品 No_103  【ある小官僚の抹殺】


 

紹介作品No 103

ある小官僚の抹殺】 〔別冊文藝春秋:1958年(昭和33年)2月号〕
昭和二十××年の早春のある日、警視庁捜査二課長の名ざしで外線から電話がかかってきた。呼び出しの相手を指名しているくせに自分の名前を云わない。かれた、低い声である。課長は受話器を耳に当てながら、注意深く声の背景を聞こうとした。電車の音も、自動車の騒音もなく、音楽も鳴っていなかった。自宅から掛けているという直感がした。話はかなり長く、数字をあげて、内容に具体性があり、聞き手に信頼性をもたせるに十分だった。重ねて名前を聞くと、都合があって今は云えないと、かれ声はていねいに挨拶して先に切った。ふだん話をするのになれた人間の云い方であった。いうところの汚職事件が新聞に発表されたとき、人は捜査当局の神のような触覚に驚く。いったい、どのようにして事件の端緒をかぎあてたのだろうかとふしぎな気がする。多くは、彼らの専門的な技能に帰納して、かかる懐疑を起こさないかもしれない。しかし、職業の概念に安心するのは、そのゆえにあざむかれているのである。 蔵書【松本清張全集37 装飾評伝・短編3】別冊文藝春1958年(昭和33年)2月号

普通小説は、誰かの目線で書かれる。勿論作家が書くので、作家の目線であるが、この時の作家は、『神』として存在する。
どんなストーリーに展開することも自由だ。登場人物も自由に描ける。ただ、前後の脈絡もあり、作品としての完成度も要求される。
都会のビジネス街の歩道を歩く主人公。
1.突然頭上に何か落ちてきた。
2.暴走する車に跳ねられた。
3.知人に出会った。
4.警察官に呼び止められた。
5.上空にヘリコプターを見つけた。
もう何でも良いのだ.....。
ただし、目線が問題だ。主人公がA氏だとする。
1.の場合、「たまたま、B氏はそれを目撃した。」B氏は、「あっ、鉄骨だ!」思わず叫んだ。
この場合、作家の表現だが、B氏の目線を借りての表現だ。

回りくどく書き始めたが、訳がある。
>重ねて名前を聞くと、都合があって今は云えないと、かれ声はていねいに挨拶して先に切った。ふだん話をするのになれた人間の云い方であった。
誰の感想だろうか?
書き出しの文面から、「警視庁捜査二課長」の思いだろう。しかし、以後の記述が明確に、警視庁捜査二課長とは書かれていない。
汚職事件の密告から始まる。
汚職事件は贈賄、収賄は共犯関係で、直接の被害者がいない。
仲間割れか、利益が回ってこなかったか、仲間はずれになった者の垂れ込みが発覚の原因といえる。
垂れ込みは、砂糖汚職事件の糸口となった。

電話の主は、白河健策の子分だろう。白川健策は××党の勢力者。
沖村喜六は、日本△△共同連合会理事長。公金600万円を政治工作資金として、××省前局長、現××党代議士岡村亮三へ贈賄
沖村喜六は、横領で逮捕。
××省業務部第三課係長瀬川幸雄。
瀬川幸雄は、仲村喜六に麻雀に招待される。麻雀の軍資金として七八千円の贈与を受ける。芸者をあてがわれる。
少額ではあるが、瀬川幸雄は、供応で呼ばれる。自分だけではないと主張した。

××省業務部第三課長唐津淳平の名が瀬川幸雄から出る。
唐津淳平は、四十三歳、実直な男。酒は好きだが、他人には親切で世話好き。私大を出ていた。東大での同期は局長や部長がいた。
唐津淳平の妻は幸子。三十八歳。大柄で、目鼻立ちが派手。京都の商人の娘で、世話好き。子供は一人。

瀬川幸雄は、参考人から被疑者に切り替わった。
>表情は哀願的になり、阿諛的となり、苦悶が肩をおとした姿勢で残った糸を吐き出した。
瀬川幸雄は、推測を混ぜて唐津淳平の関与をほのめかした。

沖村喜六は、取り調べに対して「忘れました」の一点張りで押し通そうとした。しかし、
>彼の主張を支えた精神の支柱は強靱さを失い、今にも崩壊しそうだった。
自供が始まった。
はっきりとした、贈収賄事件の様相を帯びてきた。
公金を横領した沖村喜六。
公金は政界工作に使われた。公務員の仲介で代議士へ贈賄。
仲介した公務員は、××省業務部第三課長唐津淳平
出張中だった唐津課長は、熱海の旅館「春蝶閣」で自ら首をくくった。

ここまで来ても、小説の案内人の姿が見えない。(筋立ては、全八節。二節が終わったところだ)

「自ら首をくくった」唐津淳平の死体を発見したのは、知人の篠田正彦だった。
篠田正彦は、唐津課長の岡山から出張の帰路、熱海の旅館で落ち合い麻雀をする予定だった。
二月二十八日、旅館で落ち合い、翌日の三月一日に朝から麻雀を始めた。メンバーは唐津、篠田、篠田の愛人稲木と土地の知人。
同日夜十時頃まで麻雀。客は帰り、篠田正彦は、愛人の稲木良子と同宿
死体発見者の篠田は、首をくくった唐津の死体を鴨居から下ろした。
唐津の遺留品には、遺書もなく、土産の紙袋もあり、自殺をしそうなものはなかった。
篠田は、唐津から会いたいと電話があり、それでは、熱海で風呂に入って麻雀でもとの話になり、旅館に先着して待っていた、と述べた。
死亡した唐津淳平の妻は、警察からの連絡で熱海に到着。変わり果てた夫に対面する。
そこで、篠田正彦に会う。
>「あなたが篠田先生ですか」
>まるっきり初対面の挨拶だった。
(唐津の妻の様子を誰の目線で書いているのか?)

現場にいる者の目線であるが、誰だか不明。作家が「神」として登場していると言える。

途中であるが読後感として、最後まで案内人の「私」が気になった。(「私」の登場

捜査本部は、事件の核心を知って居るであろう唐津課長の死に驚愕した。
業者や政治家は図太いが、官僚は、一度引っ張ると
>官庁の机の前に構えていれば傲岸に見える彼らも、あの取調室の見すぼらしい机の前にすわらされると
>罪人の意識に戦慄していっさいの秘密を吐きがちである。
唐津淳平にそれを期待していた。
捜査本部はもう一つ注目していた。第一発見者が篠田正彦であることに目をむいた。
当局は、篠田正彦の名前に心当たりがあった。会社重役となっているが、名の通った会社ではない。
本人は弁護士とも称していた。(唐津淳平の妻は、篠田を先生と呼んでいた)
詐欺事件でたびたび召喚されたことがある人物だ。

二月二十八日から三月二日にかけての、唐津と篠田の行動が調べられる。
二十八日の夜八時半頃唐津淳平は旅館に着いた。十時前に稲木良子が実家に帰ると言って、旅館を出る。
(以後、良子が戻るまで、唐津と篠田は二人きり
夜中の十二時頃、稲木良子は旅館に戻る。良子が戻ったことを機会に唐津課長は隣室に引き上げる。
翌日の朝十時から篠田の部屋で麻雀を始めるという。女中は、その時の様子を上機嫌だったと証言した。
三月一日の、朝十時から麻雀が始まった。そこには、メンバーとして中年の「山内」と名乗る男が篠田を訪ねて加わった。
同日の夜十一時頃まで麻雀は続いた。
終わると、中年の「山内」と名乗る男は、篠田に送られて宿を出た。土地の人間だから...と篠田は、そのまま山内を帰した。
唐津は、昼頃までに東京に帰りたいと言い、女中に九時頃起こしてくれと頼む。
篠田は、翌朝八時頃唐津課長を起こしに行き、鴨居からぶら下がっている唐津課長の死体を発見した。
ただし、「ぶら下がっている死体」は、篠田の証言で、実際は畳の上に横たえてあった。
この流れでは、篠田正彦こそが事件を組み立てた男では? と誰でも思う。
>だがその事を証明するなにものも今ではない。のこっているのは、この世に篠田正彦という男の舌だけである。

数年前に起こった不発のこの事件には興味をもった。
ここでようやく、「私」が登場する。(【蔵書】「黒地の絵」36ページ中で、23ページ過ぎに私が登場

唐津課長の出張時の行動や、家族への電話。旅館での女中との話の内容からとても自殺しそうな状況はない。
問題は
唐津課長が篠田正彦へ電話をして、熱海の旅館で麻雀の約束をした経緯が鍵になりそうだ。
それに、旅館で、唐津課長と篠田正彦が二人きりになる時間があったが、何を話したか? その後の唐津課長は上機嫌で翌日の麻雀に臨んでいる。
なぜ、翌朝早く唐津課長の部屋を訪ねたのか? 死体は本当に鴨居にぶら下がっていたのか? なぜ下ろしたか?
疑問の全てが「
この世に篠田正彦という男の舌だけである。」に凝縮される。

「私」の推理が最後まで続き、一応結論めいた推論が示される。
いわゆるネタバレになるので、「私」の推論は書かない。(今後はネタバレに注意して紹介しようと思う)
最後まで「私」は誰なのか分からない。なぜか気になった。


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●【蔵書:「黒地の絵」(カッパノベルス)
●汚職事件の結末
  小官僚の自殺によって核心に迫ることが出来ずうやむやになるケースが多々ある。
  自殺と言っても、精神的に追い詰めて...
  家族のことは心配するな...全て面倒を見る。因果を含めて...



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全くの蛇足だが
『新・猿の惑星』のDVDを見た。
妙に印象に残った台詞があった。
「ワープ」について説明している場面があった。空想科学小説及び映画などで、超光速航法や瞬間移動の考え方の説明?
(当方のかなり勝手で、強引な理解だと思う)
「絵を描いている画家」の例えで説明される、無限後退の論理が面白い。
画家が風景画を描いている。何か物足りない...その風景に画家が存在しない。
風景を描いている画家を風景の中に描き込んだ。だが、やはり、物足りない。その絵を描いている画家が描かれていない.....。
無限に後退することになる。(なんだか訳の分からない説明になってしまった)
小説に当てはめてみる...
作家は神であるが、それでは小説として面白くない。推理小説では、作家を神として登場させないし、気づかせない。気づかせない努力をする。
誰かの眼を通じて描き、主人公なり、登場人物に語らせる。
でも、神である作家が、顔を出さざるを得ない...。「無限後退」というより「無限ルーフ」に入り込んでしまった。
なぜか、「ある小官僚の抹殺」を読んで、昔聞かされた『小説論』もどきを思い出してしまった。


2020年06月21日 記

登場人物

唐津 淳平 四十三歳。実直なで、仕事は出来る能史な男。私大出で同期の東大出は、局長や部長になっている。 
××省業務部第三課長。部下は瀬川幸雄、瀬川の自供により追い詰められる。
汚職事件のキーマン。自殺を装い殺される?
瀬川 幸雄 ××省業務部第三課係長。唐津課長は上司。汚職事件の参考人として警察に呼ばれる。参考人から被疑者に代わり自供する。
篠田 正彦 会社重役。詐欺事件で再三警察に召喚されたことがある。官僚や政界に顔が利く。代議士を目指すが落選している。稲木良子は愛人。
唐津淳平の自殺体の第一発見者。事件の張本人か?先生と呼ばれ、自称弁護士だがあやしい。
沖村 喜六 日本△△共同連合会理事長。公金600万円を横領して政治工作資金として、××省前局長、現××党代議士岡村亮三へ贈賄
白河 健策 ××党の勢力者。事件の発端になる密告を子分にさせる。仲間はずれで、利益が回ってこなかった腹いせ...。
岡村 亮三  代議士。沖村喜六から賄賂を受け取る。
稲木 良子 篠田正彦の愛人。唐津・篠田・内田と雀卓を囲む。篠田の行動に一役買っている。 
唐津 幸子 唐津淳平の妻。三十八歳。大柄で、目鼻立ちが派手。京都の商人の娘で、世話好き。子供は一人。
篠田とは唐津淳平の自殺現場で初めて会うが、篠田が弁護士らしいことは知っていた。夫の死後でも生活に困ってはいないようだ。
内田 篠田に呼び出され、唐津・篠田・稲木良子と雀卓を囲む。おそらく篠田の手下。  
私が誰だか不明。 

研究室への入り口