紹介作品 No_097  【消滅】(絢爛たる流離:第十一話)


 

紹介作品No 097

安全率】 〔婦人公論 1963年(昭和38年)12月号〕
(絢爛たる流離)
湘南地方のN都市は、最近、新しい別荘地帯としてとみに株を上げてきた。深く抉られた入江は、夏はヨット港になったし、冬は色づいた密柑山に囲まれて十分に暖かであった。 【絢爛たる流離:陰影】蔵書:松本清張全集 2 眼の壁・絢爛たる流離:婦人公論 1963年(昭和38年)12月号

>たった三年ばかり前、貧弱な漁村だったN地は、魚臭い空気から建てこんだ別荘の吐く高尚な香気にとって代わった
>N地は新しい避寒・避暑地となった。高級な都会人が集い、文化的な生活地となった。第一、魚が新鮮でおいしかった。
>日本式のサシミでもよかったし、フランス料理にしてもよかった。

そして
>...ただ、裏口から汚い格好の漁師のおかみさんが(ときどき、その前かけには魚の血がついていた)のぞくのには閉口したが
精一杯の皮肉を込めて『N地』を描写する。
N地には当然、ホテルが用意され別荘を持たない人種を満足させることになり、その建設が進む。
建設現場の飯場に、溶接工見習いの宮原次郎が寝起きしていた。
宮原次郎は、十七歳。中学を卒業すると建築業の花岡組に入り、かなりの腕になっていた。
高校に行きたかったが、家庭に事情が許さなかった。彼は、講義録を取り寄せ読んでいたり、小説を読むことが好きだった。
周りの大人たちが、酒を呑み、博奕に興じたり口喧嘩をはじめても関わらなかった。

休みの日の彼は、『書き入れどだったi』。みんなが出払った部屋で本を読み、近くの松林や蜜柑畑の中に入って
木の根や石に腰掛けて、前面の入江を眺めたり本のページをめくることで過ごした。
ただ、蜜柑畑を時折通るアベックの嬌声が心を乱した。

仕事現場の前を通る若い女を、下品な言葉で揶揄する作業員達には相変わらずなじめなかった。
もっとも、気を散らして、手でも止めようなら溶接工の太田健一に怒鳴られるにきまっていた。

作者の、物語を端折って進めるとの言葉通り、話は進む。
宮原次郎は別荘人の宇津井登代子と知り合いになった。登代子は二十一歳。作業員達の間でも評判の女だった。
蜜柑畑の中での出会いは、宮原次郎を夢中にさせた。
「あんた」と、女は言った。「感心ね。講義録など読んでるの?
宮原次郎を夢中にさせた女、宇津井登代子の描写が続く。
>彼女はその大きな眼を少しすぼめて台上のほうを眺めた。半分組立られた鉄筋の上には、一人の作業員の姿もなかった。
>次郎は、その女の整った横顔と、牛乳のようにお半透明な白い皮膚が眼に灼きついた。


彼女についての噂は
父親は実業家らしい。家族と月に二回程度別荘にやってくる。女中二人と留まっている。身体が少し弱いらしい。
登代子も次郎に興味を持った。
次の休みの日に、次郎は期待を持って蜜柑畑の中にいた。期待は満たされた。
「あら、今度は講義録じゃないわね」
「小説らしいわね。何なの、それ?」それが、ドストエフスキーと知って。
「あんた、外国小説も読むの」


彼女の「ドストエフスキーはいやだわ」の一言で
次郎は、次からドストエフスキーを放擲した。
次郎は、彼女から所有主の「宇津井登代子」署名入りの、フランス文学の翻訳本を借り、読みふけった。
が、その面白さは理解出来なかった。
理解しようと努力はした。
「こないだの小説みんな読んだ?」「ええ読みました」「面白かった」「ええ」
面白くないとは言えなかった。

登代子から別荘への招待を受けた。
「いつか、うちに遊びにこない?」
約束は実現した。歓待された。別の小説本を呉れた。どういうわけか、登代子の署名はなかった。
それだけで、次郎の興味は一気に失せた。読む気もしなくなった。

その後は、次郎の期待がなかなか満たされなかった。

一度だけ次郎は登代子の息吹にふれたことがある。講義録の英語を教えてくれたときだった。
彼女の発音とその訳を、名優のセリフとして暗記・暗唱したのだった。
一節の英語は彼女の官能であった。
極めて個人的な感想だが、少年の思いは、【天城越え】の少年に通じる。そしてまだ他にも清張の小説には同様の人物が
登場しているような気がする。女は、【或る「小倉日記」伝】の山田てる子。?

作業員達は鉄骨の上から登代子とその恋人らしい人物を目撃する。
「あの女にも恋人がいたんだな」
太田健一が言った。
「バカ野郎。今ごろの若い娘で男のいないやつがあるか」
「だが、今までついぞあんな男を見かけなかったな」
「どうせ金持ちのドラ息子に違いねえ。前からよろしくやっていたんだろう」
次郎は、そのことを確信させられる。いつもの蜜柑畑で登代子から男を紹介されたのだ。
「ねえ、崎川さん。この子とても頭がいいのよ...」
「君、感心だな」の声を残して二人は蜜柑畑の陰に消えた。


そして、数日後、次郎は登代子に訊ねた。登代子に訊ねるとき次郎は、その青年に対して対等な意識に立っていた。
決定的な告白を受ける。
「あの人、前から友だちなの。今年の秋、わたし、あの人と結婚するのよ」
突然だが、この場面で、登代子は3カラットのダイヤを次郎に見せる。
「ダイヤよ。三カラット近くは十分にあるわ。これ、婚約指輪ではないけれど、あの人からのプレゼントなの」
別れるとき、登代子はさようならと言ったあと、急に言った
「次郎君、ご免なさいね

登代子の別荘に行く崎川の車の前に立った次郎は、隠し持った、工事場で使う鉄鎚を崎川に振り下ろす。
犯行現場から飯場の台上に駆け上がった次郎が見た景色は...

>下を見ると、登代子の別荘にまだ灯がついていた。
>窓ぎわを誰かがよぎったので、その灯がちょうっとだけ瞬いた。
>すらりのとした女の影がゆっくりと歩き回っている。仕合わせそうな身ぶりだった。
次郎は自分の入れない大人の世界に泪を流した。

被害者は崎川保範(サキカワヤスノリ)鈍器で強打され、脛骨骨折が致命傷。
六万円入りの財布は取られていなかったが、宇津井登代子が指のサイズがどうしても合わなくて、崎川に
直しを託した三カラットのダイヤが死体から出てこなかった。
殺人現場近くの飯場が当然のように捜査の対象になった。だが、品行の良い宮原次郎は目立たなかった。
宇津井登代子も、警察に、ダイヤの事を知っている宮原次郎の事を話さなかった。
登代子もまさか次郎の犯行とは想像もしなかった。あらぬ嫌疑が彼に掛かることを惧れていたのだった。
>それが少年の心を奪った登代子の「詫び」であったかもしれない。

次郎は盗ってきたダイヤの始末に困った。
ここで疑問だ。始末に困るダイヤをなぜ盗ったのか?そもそも崎川がダイヤを持っていること自体が不自然なのだ。
登代子の説明で納得させられるが、次郎にはうかがい知れないことである。
登代子が次郎にダイヤを見せる場面もとってつけた感じがする。

別荘地のホテル建設の工事は終わり、東京に戻った次郎はなおもその始末を考えなければならなかった。
ここで奇妙な記述がある。
>花岡組はN地の台地から東京の引き揚げた。次郎は、引き上げる前の晩に、台地の上から下の別荘の灯に別れを告げた。
>その灯は、やはり宇津井登代子が前を過っているようにときどき瞬いた。
>次郎は、
ご免なさいね、という登代子の声をここでもう一度聞いた。
次郎の幻聴だろうが、なんともロマンチックな一文である。

東京の工事現場では補助的な部分の仕事を任されるようになっていた。
溶接工の次郎の持つバーナーから噴出される青白い灯は、鉄板の上に置かれたダイヤの指輪に当てられていた。
>ダイヤのガラス体は高熱に飴のように溶けはじめた。

ここでこの話が終わらない。
或る日、その工事現場から鉄筋資材の一部が落下して通行人が怪我をした。
工事責任者は警察と一緒に現場を調査した。
専門家の現場責任者は鉄筋に付着する銀色に光る物質を見つける。
詳細な科学実験の結果、プラチナの溶けたものと分かった。

「ここの溶接は誰がやったのか?」
監督は溶接工の太田健一に訊いた。
「次郎です。あのバカ野郎が何かヘマをやりましたか?」

ダイヤとしての形は消滅したが、事件は迷宮入りとは行かなかった。宇津井登代子は内を思っただろうか?


※言葉の事典-----
放擲(ホウテキ):ほうってしまうこと。うちすてること。 「地位も名誉も-して隠棲する」


※ダイヤとプラチナの融解温度
1,000度未満でダイヤモンドが昇華するとされています。
プラチナの溶ける温度: 1,768度
※溶接のガスバーナーの温度
2000度近くまで上がるようです。


2019年6月21日 記

登場人物

宇津井 登代子 二十一歳。実業家の娘。別荘に女中二人と滞在。整った横顔、半透明な白い皮膚。結果として宮原次郎を翻弄する。
宮原 次郎 花岡組の溶接工見習い。家庭の事情で高校へ行けなかった。小説を読むことが好きだった。淡い恋慕は登代子の婚約者を殺すことになる。
崎川 保範 宇津井登代子の婚約者。とばっちりの逆恨みで、宮原次郎に殺される。
太田 健一 花岡組の溶接工。宮原次郎の先輩。

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