紹介作品 No_066  【予言僧】


 

紹介No 066

【予言僧】 〔新婦人:大奥婦女記四話〕 1955年10月~1956年12月号

晴れた秋の日、おだやかな陽射しが京の仁和寺の境内にひろがっている。睡くなるような懶いあかるさである。お玉は母と一しょに歩いていた。(株)文藝春秋 『松本清張全集29 逃亡・大奥婦女記』 初版1973/06/20より

はじめに
「予言僧」は、『大奥婦女記』の四話として書かれているが連作物(「絢爛たる流離」に近いのか?)なので
突然途中の「予言僧」を取り上げると違和感があるかもしれない。が、話としては独立している。
紹介作品として取りあげた事に特段の意味は無い。章立ては以下の通りである。

 1.乳母将軍
 2.
矢島の局の計算
 3.
京から来た女
 
4.予言僧
 5.
献妻
 6.
女と僧正と犬
 7.
元禄女合戦
 8.
転変
 9.
絵島・生島
10.
ある寺社奉行の死
11.
米の値段
12.
天保の初もの

それぞれは独立しているが、将軍を縦軸に連作物として仕上がっている。
「予言僧」は、三代:徳川家光.四代:徳川家綱.五代:徳川綱吉
の時代で綱吉の時代が中心である。
物語は綱吉の母【桂昌院】(通称お玉/家光の側室)を主人公に描いている。
「お玉」は西陣織屋の娘と言う説があるが、八百屋の娘として登場する。

幼い彼女(お玉)は、秋の晴れた日、仁和寺に母と参詣に行く。
寺の若い僧から人相を見立てられる。
>この相は後々には威勢天下にならぶもののない、申さば将軍の母君ともなられる吉兆が
>見うけられます。
>しかし、町家の八百屋さんのお子さんがそのような身分になられる訳はないから、
>わたしの占いの勉強が至らぬ故かも知れません。が、どうも不思議です。
>わたくしはには見るほどそう映るのですが...

僧は他言無用とお玉の母に告げる。僧の名は亮賢。
お玉の遠い思い出である。しかし、その後のお玉は時々思い出す事になる。

二条家の取締である本庄喜太夫から行儀見習として奉公の話がある。
江戸の於万様より部屋子の一人がほしいという話である
お玉に異存がなければということで、お玉の「奉公に参ります」で決まる。
お玉は亮賢の話を思い出す事になる。

お玉は、於万の方に可愛がられる。
於万の方は二十八歳。お褥を遠慮した。大奥では三十歳にして将軍のお褥を断る風習があった。
於万の方は代わりにお玉を将軍家光の前に見せた。家光は気に入った。

お玉は将軍付の中臈になった。名前を「秋野」と代えた。
秋野は、予言僧「亮賢」の声を遠くに聞いたに違いない。
その声は、秋野が家光の寵愛をうけ懐妊したとき「もっと明瞭に聞こえたであろう」
「偉い僧であった。いま、どうしているであろう?」
秋野は、亮賢が江戸に来ている事を知る。亮賢に安産の祈祷をさせようとする。
秋野の前に現れた亮賢は年をとっていたが、
>特徴のある濃い眉毛は、やはり黒々と一文字を引いていた。
>「亮賢か、久しぶりです。そなたは、わたしを知っているか?」秋野は懐かしそうに訊いた。
>「何でお見忘れ仕ろう」


亮賢の祈祷は二月間にわたった。
>「吉兆、おめでたく存じまする。この度のご出生はご無事にして、しかも和子様にいらせられます。
>なお、ゆくゆくは大樹公(将軍家)とならせられる方にござります」

秋野は「徳松」を生む。和子が現実になる。秋野はうれしく、その上の事(大樹公)は望外の望みであった。
家光には、お楽の方の生んだ竹千代(後の家綱)がいた。
家光は徳松のことをよく気にかけた。秋野にこんなことを言った。
>自分は幼い頃から武芸ばかり好み、その上、若くして将軍職をついだから、忙しさに紛れて読書する
>暇もなかった。それで文事を解せず、今では後悔している。
>この徳松は利発で賢そうに見える。よい師をつけて聖賢の道を学ばせたら、
>ゆくいゆくは役に立つであろう」

徳松は聡明であった。読書を好み、学問が好きだった。
慶安四年四月、家光は病死した。
秋野は髪を落として名を「桂昌院」と改めた。徳松は六歳であった。

異母兄である竹千代は将軍をついで家綱となった。
徳松は十五万石を貰い、桂昌院は後見人となった。
徳松は十六歳で元服して、綱吉となり、寛文元年三十万石となり上州館林の城主となる。
桂昌院の信望厚い亮賢は、碓氷八幡宮別当大聖護国寺の住職となる。

延宝八年五月家綱が病死。
家綱には子供がいなかった。中臈の中に懐妊の兆しを探すが漏斗に終わる。
大老酒井忠清は宮家から跡継ぎを迎えようとするが、老中堀田正俊が反対する。
堀田正俊は綱吉を将軍にと主張する。館林右馬頭綱吉が将軍と決す。
「御用の儀これある間、館林殿(綱吉)には早々にご登城あるべし」
夜中の呼び出しに、早速登城。
館林家の附家老牧野備後守成定も綱吉の後を追って登城する。
出迎えた正俊は綱吉以外の入城を認めなかった。抗弁する成定に
>かるく制して
>「その儀なら安心せよ。御慶事でござる、御慶事でござる」

将軍綱吉の跡目相続が発表された。
綱吉は、西の丸へ入城。先代家綱に仕えた女中たちは御役御免、北の丸へ。
それにつけても、桂昌院は心から満足し、亮賢の予言のすさまじさとともに心から讃嘆した。
桂昌院は神田知足院に亮賢を呼んだ。
本丸の普請が終わり、新殿舎安鎮修法は桂昌院の序言で亮賢に命じられた。
老中稲葉正則に反対されるが綱吉に一喝される。綱吉は、学問を好むと共に、果断な性質であった。
桂昌院は亮賢の為には何でもするし、してやりたかった。
高田薬園あたりに一寺を建立し、関東真言宗の大檀林として、亮賢を入れた。その寺が護国寺である。

桂昌院の恩人は亮賢ともう一人、堀田備中守正俊である。
>「上様には何ゆえに雅楽(うた/大老酒井忠清)を辞めさせて、正俊を用いになりませぬか。...」
この頃から桂昌院の口出しが祭り事に影響を及ぼす。
>「以後、登城に及ばず
酒井忠清は、ほどなく御役御免になり、老中筆頭は堀田正俊になる。
忠清は、綱吉の冷たい仕打ちに煩悶(ハンモン)しながら死んだ。

綱吉は、学問好きで、自ら論語の講釈を諸大名にするのを得意としていたが、性格に奇矯なところがある。
忠清の死をきいて、その死因を徹底的に調べた。死骸を掘り出してまで調べさせる執念を見せた。
綱吉は、人の好悪が激しかった。嫌われたのが忠清。好かれたのが堀田忠正、牧野成貞。
護国寺の建立に場所探しを命じられた老中土井利房。利房は多忙に紛れて延ばし延ばしにしていた。
「まだ適当な地所が見当たりませぬので」
その翌日、「登城に及ばず」。その後、御役御免
護国寺の建立奉行になったのが、板倉内膳正重種。申し分ない伽藍を造営した重種は信用され、
老中職に加えられたが、一言で貧乏くじを引いた。
護国寺の入仏供養の一件で桂昌院の怒りを買う。綱吉の賛同も得ての事であるが、武州若槻から信州
坂木へ所替えとなった。老中を免職されたのはもちろんである。
重種に護国寺参詣を邪魔された桂昌院は、二月二十一日、将軍家お成り行列で参詣した。
かつての仁和寺の若い僧、亮賢は、特徴ある眉も真っ白になっていた。
桂昌院も五十九歳である。登場人物の人相風体の描写はほとんどない。
亮賢だけは、「特徴のある濃い眉毛は、やはり黒々と一文字を引いていた。」と紹介されている。


将軍の母となった「お玉」(秋野/桂昌院)と不気味な性格を感じさせる綱吉のコンビは
後世にいかなる評価を残すのか。
亮賢は、題が「予言僧」とあるわりには、祭り事に政略的な関わりもなく、予言が実現する過程で
桂昌院の庇護を受ける「偉い僧」の域を出ていない。
話は特別な大事件があるわけでもなく、綱吉の奇矯な性格から来るのか、人の好悪からお沙汰が決まり
翻弄される老中が惨めだ。それに桂昌院の口出しが加わるのでやりきれない。

綱吉の治世の前半は、基本的には善政として天和の治と称えられている。
しかし、生類憐れみの令をはじめとする、後世に“悪政”といわれる政治を次々と行うようになったと
されているが歴史的事実はいかに?
綱吉の時代は、江戸時代史見直しの中で再考されつつあるようだ。

最後の一行
>そのことがあってほどなく、彼の推薦によって一代の妖僧、隆光が桂昌院の前に現れる運命となる。
次章が「献妻」。最後の一行で次回蛇足的研究を『献妻』に決定。


2015年06月21日 記

登場人物

お玉(秋野) 家光の子、綱吉(徳松)の母。お玉、八百屋の娘。大奥に入り秋野を名乗る。
桂昌院(秋野)) 家光没後桂昌院を名乗る(お玉、秋野)。徳松(綱吉)が元服後も後見人。権勢を振るう
徳松(綱吉) 元服後、綱吉を名乗る(館林右馬頭綱吉)。五代将軍。性格に奇矯なところがある。
亮賢 濃い眉毛が黒々と一文字。仁和寺の僧、桂昌院の信任で護国寺の僧正となる。予言僧。
酒井 忠清 大老。家光亡き後、宮家から跡継ぎを探す。後に綱吉から冷遇を受け煩悶死
堀田 正俊  老中。酒井忠清の跡継ぎの提案に反対し綱吉を推挙する。桂昌院は恩人と信望 。 
牧野 成定  館林家の家老、牧野備後守成定。江戸城からの呼び出しに綱吉と共に登城。綱吉の信望も厚い 
土井 利房  老中。護国寺の建立地所探しでしくじる。御役御免
板倉 重種 老中、板倉内膳正重種。利房に代わって重用されるが、入仏供養の一件でしくじる。
本庄 喜太夫  二条家の取締。お玉を行儀見習として、江戸の於万様部屋子へ仲介する。 

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