紹介作品 No_063  【剥製】


 

紹介No 063

【剥製】 〔中央公論:文藝特集号〕 1959年1月号

鳥寄せの名人がF市に居るから写真班を連れて、子供向きの読物記事にしてくれないか、と芦沢が次長から頼まれたのは、十月の終わりごろであった(株)文藝春秋『松本清張全集37』 装飾評伝・短編3 初版1973/07/20より

新聞社の出版局に勤めている芦田は次長から取材を頼まれる。
「口笛を吹くような恰好で、野鳥の鳴き真似をして同類をあつめるのだろ」
「なにしろ名人らしい。その男が呼ぶと、付近の空を飛んでいるあらゆる鳥が集まって、その辺の木の枝に
とまるそうだ。..」
鳥寄せの名人の取材である。
芦田はカメラマンの浦部と取材に向かう。住所と名前を書いたメモを受け取る。
住所はF市。武蔵野のはずれ、東京の衛星都市、競馬場で有名...府中市であろう。
名人の名前を塚原太一という。メモには鉛筆の大きな字で書かれていた。
事態は一変する。名人と呼ばれる塚原太一の住まいを見た芦田は予想外の光景に驚く。
塚原の住まいは、トタン屋根が腐れかけ、小屋のように狭かった。
留守かと思ったほどに全部雨戸が閉まり、黒くなった濡れ縁下では、金網に囲われ鳥が寒そうに餌を
ついばんでいた。
弟の家に厄介になっているとのことだが、名人に相応しくない住まいだった。
カメラマンの浦部も五六歩退って家全体を眺めていた。
表戸を叩き声をかける芦田。中から咳が聞こえる。用向きを伝えると全部開けた戸から身体を全部出す。
その姿は、住まいに相応しいものなのか
>うす汚れた工員服の下に、黒い斑点をいたるところにつけた季節違いの白いズボンをはいていた。
>彼は白髪の頭を長く乱し無精髭も白いものが多かった。六十近いと思われ、皺が深く、どろんとした
>眼をして、艶の無い顔色が悪かった。

1959年の作品である。年齢は10歳程度は加算される。七十近いと読み替えるべきだろう。
筒状の紙を渡し、支度をして出てくるとの返事で引っ込む。
筒状の紙は、感謝状のようなものだった。
再び、姿を現したが変わり映えのしない服装である。
>やはり工員服と鼠色に汚れた白い皺だらけのズボンであった。
>ただ違っていることといえば、そのよれよれの肩に、戦時中使ったようなズックの鞄がぶら下がっていた。
>その中に弁当でも入れているようだった。

芦田が、「結構ですな」と筒状の紙を返すと、塚原名人は笑顔を見せる。
気をよくしたのか、一冊のアルバムを取り出す。
「これが天勝ですよ」
写真の若い彼は「天勝一座」についてフランスに渡ったらしい。
そのころから塚原太一は、鳥啼きのの特殊技能をもっていたようだ。
「さあ行こう」塚原の声をきっかけに、武蔵野の雑木林へ向かう、芦田.浦部。
現場に着き塚原太一は鳴き始める。
モズ、メジロ、四十雀、ツグミと鳴き声を変えて鳴き続ける塚原太一。
>塚原太一の口笛に欺されて近くの枝にとまろうというような殊勝な鳥はいなかった。
「調子が悪い」
あっさり断念する塚原太一。
「けど、写真を撮るなら撮れますよ」塚原太一は妙に卑屈に笑う。
>ただ違っていることといえば、そのよれよれの肩に、戦時中使ったようなズックの鞄がぶら下がっていた。
の鞄から、はじめは指が震えていたが、慣れた手つきで剥製の野鳥を一つ一つその辺の木の枝に配列
しはじめた。
カメラマンの浦部は、仏頂面で三,四コマ写真を撮る。
剥製の野鳥を並べた行為は、千円のお礼で終わる。
鳥寄せの名人は居なかったのだ。

一年後、芦田は別の雑誌の編集に移っていた。
話は全く別になる。後半は要約する。
作家(T氏)の担当になった芦田は原稿を取りにT氏宅に向かう。先客が居る。R氏である。
R氏は,美術批評家で全盛期は芦田も知っている名声ぶりであった。
芦田はT氏からR氏にも何か書いてももらうようにしてくれないか...と頼まれる。
現在のR氏の地位を心配しての話である。
折角T氏の頼まれ事なので五、六枚の原稿を依頼することになる。
「近ごろ忙しくてね、急な締切りを云われると困るんですが」
「いや、お暇なときで結構です」

R氏の面上に、かるい失望の色が瞬間に通りすぎた。
「いま、テーマがあるんでね、ちょうど、どこかに書きたいと思っていたところだから、じゃ、それを先に君の方に廻しましょうか」
「それでお願いします」
「何枚くらい書くの?」
「五、六枚で結構です。先生もお忙しいでしょうから」


R氏から速達で原稿が届く。二十七枚の原稿である。
「五,六枚では自分のテーマを展開する事が出来ません。これが最小限度です」
R氏の文字が書きつけてあった。

>彼はふと、一年前の鳥寄せの名人のことが連絡もなしに、頭に浮かんだ。木の枝に剥製の鳥を震える
>指で並べならべ、千円の札をとった工員服の姿だった。
>美術評論家のR氏と鳥寄せの名人塚原太一とが共通しているという意味ではなく、人間の剥製を考えて
>いたのだった。


過去の栄光を捨てきれず、生きていかなければならない。栄光があったばかりに生きづらい現実がある。
清張作品「」(1957年1月)にも通じる。
クリアファイルに挿まれたレコードジャケット 」も考えさせられる。

ところで少々気になったのだが
塚原太一は本当に鳥寄せの名人だったのだろうか?
「天勝一座」は物まねとして参加したのでは..芦田は塚原太一の擬声を聞いたとき
>びっくりするほどうまくはなかった。
>このぐらいなら、寄席の芸人がやっているのとさして違わないように思われた。

蛇足だが、スズムシやコオロギの声は電話では聞こえないそうだ。
他の鳴く虫にも言えることだが周波数が高すぎて、一部の録音機材では録音できず、
電話(携帯電話含む)では鳴き声を伝えられないらしい。
ラジオ番組で、動物の物まねで有名な、江戸家 猫八師匠(3代目?)が電話でスズムシの鳴きまねをした
が聞こえなかったらしい。名人は凄いのだ!


2014年12月21日 記

登場人物

大塚 太一 鳥寄せの名人。昔、「天勝一座」についてフランスに渡ったらしい。年は60近い。
芦田 新聞社の出版局勤務。一年後別の雑誌の編集部へ移る。T氏(作家)の担当になる
浦部 新聞社のカメラマン
T氏 作家。芦田の所属する雑誌から原稿の依頼を受ける。芦田にR氏への原稿依頼を頼む。
R氏 美術評論家。芦田も常識的に名前を知っているほどの有名人だった。今は不遇。

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