紹介No 046
【陸行水行】 〔週刊文春〕 1963年12月25日号〜1964年1月6日号
魏志倭人伝を正面から取り上げた作品。でもなかった。
浜中浩三の邪馬台国説は清張の説と同じなのだろうか?
登場人物を揚げておこう。
浜中浩三(愛媛県温泉郡吉野村役場書記、役場の吏員。35、6歳)
私、川田修一(東京の某大学の歴史科の万年講師)
川田の先輩
兵庫県の元校長
岡山県の教育者
大分県臼杵地方の女性(村田伍平の妻)
村田伍平(醤油の製造元の主人/郷土史の研究家)
安心院とかいて「あじみ」と読ませる。大分県宇佐郡安心院町である。
私こと、川田修一は旅先の安心院町で浜中浩三に会う。名刺を交換する。
自己紹介する浜中は、四国松山の近くから来たという。
川田は驚くが、「松山から八幡浜に行き、八幡浜から船で別府までくれば、わけはありませんよ」
史蹟調査か聞く川田に浜中が答える、先生も「魏志倭人伝」の調査でしょうか?
四国の郷土史家浜中浩三の話に付き合う川田は彼の「魏志倭人伝」邪馬台国論に感心する。
展開される浜中浩三の邪馬台国論は、興味のない者には辛い話が続く。
川田が感心するほど新たな着想なのか?この着想こそ清張の邪馬台国論なのか?
九州説、畿内説程度しか知識のない私には理解できない。
帰京した川田が、先輩に見せられた地方紙の広告文で話がにわかに展開する。
広告文とは
「邪馬台国考について郷土史家の意見を寄せられたし。中央学者の説によらない
独創的なものを希望する。優秀な論文については東京の有名書店より論文集出版のよういあり
。愛媛県温泉郡吉野村浜中浩三宛」
驚く川田を、おもしろがる先輩。その川田もこの件の記憶が無くなった頃、未知の人間から
手紙をもらう。
手紙の主は川田に浜中との関係を聞く。それは浜中が手紙の主へ「邪馬台国論」の出版を理由に
金の無心をしたからである。
手紙から浜中が吉野村役場の吏員ではなく「バッタ屋」であることもわかる。
そして川田の名刺が利用されているのだ。
最初に手紙が来たのは兵庫県からだったが、岡山、鳥取、九州から続々と手紙が来るようになった。
浜中は川田の名刺を利用しながら中国地方、九州を旅をしながら詐欺まがいの行為を繰り返しているの
である。
大分県臼杵地方からの手紙で全貌が見える。その手紙は女性からだった。
50万円のお金と共に、彼女の夫、村田伍平は浜中と原始の旅へ出かけたのである。
福岡県朝倉郡原鶴温泉それは「魏志倭人伝」による伊都国(いとこく)。陸行水行の旅が始まる。
行方不明の二人は死んでしまうのであるが、
なぜか「ほっと」する。浜中が単純な「詐欺師」ではなかった。二人は詩人であった。
最後が最高
>私の眼には、浮世ばなれした古代史の研究家が原始の旅人に還って、悠々と船を漕いでいる姿が
>浮かぶのであった。
>詩人の彼らは、昼は太陽の運行を眺め、夜は北極星をみつめて、
>決して「南を東に取違える」ようなことはなかったであろう。
清張は、これが言いたい為にこの小説を書いたのでは無かろうか?
決して「南を東に取違える」ようなことはなかったであろう。
●魏志倭人伝【国名辞典】
不弥国(ふみこく) 投馬国(つまこく) 邪馬台国(やまたいこく) 奴国(なこく) 伊都国(いとこく) 末廬国(まつろこく)
一支国(いきこく) 狗邪韓国(くやかんこく)
●バッタ屋
正規のルートを通さずに仕入れた品物を安値で売る商人。また、その店。◆ ふつう「バッタ屋」と書く。
●温泉郡
温泉郡なんてあるのかな? これがあるのです。正確にはあったのです。
温泉郡(おんせんぐん)は、伊予国および愛媛県にあった郡。
2010年7月10日 記 |
登場人物
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川田 修一 |
私、東京の某大学の歴史科の万年講師 |
浜中 浩三 |
愛媛県温泉郡吉野村役場書記、役場の吏員。35、6歳。実はバッタ屋。郷土史家 |
村田 伍平 |
醤油の製造元の主人/郷土史の研究家。浜中と意気投合。 |
村田伍平の妻 |
大分県臼杵地方の女性。村田伍平の妻。川田に手紙を出す。夫を心配する。 |
川田の先輩 |
大学の教授。川田の大学の講師。川田の先輩 |
兵庫県の元校長 |
川田に手紙を出す。川田と浜中の関係を聞く。郷土史家。 |
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