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松本清張_梟示抄

NO_072

題名 梟示抄
読み キョウジショウ
原題/改題/副題/備考 【重複】〔(株)新潮社=西郷札 傑作短編集(三)〕
梟=ふくろう
本の題名 松本清張全集 35 或る「小倉日記」伝・短編1【蔵書No0106】
出版社 (株)文藝春秋
本のサイズ A5(普通)
初版&購入版.年月日 1972/02/20●初版
価格 880
発表雑誌/発表場所 「別冊文藝春秋」秋32号
作品発表 年月日 1953年(昭和28年)2月号
コードNo 19530200-00000000
書き出し 鎮台兵が征韓党の拠っている佐賀県庁に入城したのは、明治七年三月朔日の朝十じごろであった。それまで、しだいに細まってきた微弱な抵抗で、城内には戦闘員が少なくなったことはわかっていたが、首領の江藤新平は、生きているにせよ、死体となっているにせよ、残っているものと予想していた。城内の残兵はわずかな数になっていたが、江藤はいなかった。尋問すると、意外にも江藤はすでに一週間ばかり前に脱走したことがわかった。その他、島義勇ははじめおもだった幹部もことごとく姿がない。参議兼内務卿大久保利通は、山田顕義や河野敏鎌などを従えて、二時ごろ、宗龍寺の本陣についたが、この報告を聞いて険しい顔をした。彼も江藤の死屍か降人を期待していたのである。江藤が薩摩へ向ったに違いないことは、ほとんど推察できた。
あらすじ感想   蛇足的研究にも書いたが、最初の登場人物は
江藤新平
島義勇
大久保利通
山田顕義
河野敏鎌
である。しかし、登場人物は、多岐にわたる。もちろん、主役・脇役・その他大勢。
上記以外に、西郷隆盛、遠武秀行、永山武四郎、北代正臣、島津久光、鍋島閑叟とつづく...
後藤象二郎、井上馨、山県有朋、楠田英世、村井茂兵衛、楠田ひど井上馨、福岡孝弟さらに板垣、大隈...
桐野利秋、江口村吉、船田次郎、小倉処平、山中一郎、香月経五郎、中島鼎蔵、横山万里、櫛山敍臣、中島又吉、
片岡健吉、浜谷某、浦正胤、細川是非之助、榎本武揚、黒田清隆...このくらいにしよう。


話の筋立ては、江藤新平の逃亡記ともいえる。単なる逃亡ではない、追っ手から逃れながら再起を図るのが目的である。
史実と小説(フィクション)の混在なのか時代背景を押さえていなければ、取っつきにくい。
ただ、それでも読ませる筆力を感じる。
背景の説明は長くなるので省略する。時代は明治初期。
江藤新平は、
>彼は頭脳もよく、得意の法理論をふりまわせば、廟堂中、適する者がないといわれた。闘争心も人一倍である。
>彼は同藩の他の三人にあきたらず、同じ立場の土佐の板垣、林とよかった。
>林有造とは明治七年、帰国の途、船中で一緒になって決起の約をしたほどである



佐賀県庁に官軍が入城したときには、江藤は逃げた後だった。

西郷隆盛と密談をした江藤新平は、落胆、失望して土佐に行くことを決意する。同行するのは、江口村吉.船田次郎の2名
鹿児島の大隅の垂水から陸路日向、数日で飫肥につく。飫肥で小倉処平に会う。すでに政府の探偵が充満していた。
偶然、佐賀から脱走した、同志の山中一郎、香月経五郎、中島鼎蔵、横山万里、櫛山敍臣、中島又吉と会うことになる。
※一行は八人となるので、人目に立ちやすい...と、あるが、江藤を入れて総勢9名のはずだ。
舟を見立てて四国に渡ろうとするが、悪天候のため十日出発するも15日にようやく八幡浜に着く。
江藤らの行動は大久保に筒抜けだった。報告を受けた大久保は雀躍した。
網は絞られていた、江藤の人相書きが出回っている。
一,年齢四十一歳
一,丈高く肉肥えたる方
一,顔面長く、頬高き方
一,眉濃く長き方
一,眼太く眦長き方
一,顔広き方



江藤の一行は八幡浜から宇和島に着き、袋町島屋へ、山中らは横新町の吉田屋に投宿。
江藤らの元に、まもなく県庁の吏員が尋問に来る。
香月経五郎が巧みに尋問に答える。が、吏員は禁足を命じて引き揚げる。
※県庁の吏員は島屋へ来たのか、吉田屋なのか?江藤が居たので島屋だろうが...
もはや、正体の露見はまぬがれない。座して捕まるより、三人ずつで行動することに決する。(この合議は何処でしたのか?)
山中.中島.櫛山が一組。
香月.横山.中島が一組。
江藤.江口.船田が一組。

夜を待って逃げ出した。
江藤.江口.船田は、暗夜を山にはいった。時期は三月、寒風吹きすさび苦難の山越えである。
よほど歩いたから、四五里も歩いたか...夜明けに見た光景は昨夜の宇和島であった。
同じ所をぐるぐる回っていただけだった。一里も歩いていなかった。
昼間は山中に隠れ、夜に歩くが、四十歳を越える江藤には大儀で疲れるばかりだった。しかも方向がわからない。
翌日から昼間に歩き、夜は洞窟を見つけて休むことにした。
やっとの事で、炭焼小屋を見つけ、暖を取る。宇和島から持ってきた餅を焼いて食べる。人心地がついた。
一刻も早く土佐に入りたい一心で先を急ぐ。進むも退くも危険な深山幽谷の山道を行く。
本道なら、八里の道のりを三日三晩、山中を彷徨して大宮という寒村にたどり着く。
民家に立ち寄ると、老人夫婦がいあた。金銭を出し食事頼む。高知に行く道順を聞き、舟で行くことを教えられる。
津の川から四万十川で下田に入ることになる。
金を増して、舟の手配と道案内を頼む、差し出した金に喜んだ爺さんは快諾してくれる。
黄昏時に津の川に入り、民家に泊めてもらおうとするが、なかなか泊めてもらえない。どうやら手配が回っているようだ。
老人の骨折りで何とか泊めてもらい、下田に下る船便を見つけてもらう。
日暮れに下田に着く。下田は太平洋に面した港である。下田から舟で高知に向かう算段だ。
下田で一泊して高知に向かうつもりだったが、敵わなかった。手配はここまで来ていた。
下田を避けて、夜半に祖谷浦という寒村に入る。一夜を頼むため民家に声をかける。
お上の布告で泊められぬと言う家人を口説いて中に入れて貰う、金を渡して頼み込む、思わぬ高額に中年の夫婦は
眼を丸くして一泊を了解した。夫婦に高知までの船便を頼む。お金が効いたのか嬉々として小舟を周旋してくれた。
江藤はようやく高知に入った。
江藤と船田は旅館に入り、江口は林を訪ねる。林とは、林有造で、江藤は林に会うために高知に向かったのだった。
【林有造とは明治七年、帰国の途、船中で一緒になって決起の約をしたほどである】
江口と会った林は、
>捜索がきわめてきびしいから、決して旅館などに居てはいけない。
>しばらく遠方を散歩して、夜にはいったら来られたい。我輩は同志の片岡君の家に行って待っている。

と告げ、片岡健吉の家の地図を書いて教えた。
江藤は、片岡の家に船田を残して、江口を連れて行った。
林との再会を胸に迫る思いで実現した江藤だったが、島や香月や山中が捕らえられたことを知らされる。
そして、
>いったん兵を挙げて敗れたからには、賊名はまぬがれまい。だから僕はここに来た香月たちには自首をすすめた。
>江藤君はあえて僕らのごとき者の言で進退を決すべき人ではあるまい。ただよく熟考してもらいたい。

と、結んだ。

あらゆる希望を土佐に集中した江藤だが、実質的に林に裏切られる。
船田と江口は林を切ると息まく。それを押しとどめ
薩摩に失望し、土佐に裏切られた江藤は大阪に渡ろうと言った。
>大阪に行って、何を求めようというのか。彼の料簡は何を考えているのであろうか

江藤は高知を出立した。
再び山道の逃亡、山越えの苦難のくり返しになった。
船田を呼んだ江藤は、今後の同行をあきらめるよう説得した。江口も口を添えた。
>...今は先生のご前途をお見とどけしとうございます。
何も言えない江藤だった。このとき船田は二十一歳であった。

---自分は母の胎内から出て、まだかって、こんな苦痛に遇ったことがない。  後に江藤が述懐した。

甲ノ浦坂字馬越の麓で捕らわれることになる。
江藤就縛の報が佐賀の本営に届いたのは、四月二日であった。
>日ごろ、感情を面にあらわさず、冷静水のような大久保利通非も、欣喜の色を露骨にあらわし、
>手の舞い足の踏むところを知らざるありさまであった。


裁判に掛けられ、江藤は「梟首」となる。裁判長は河野敏兼(江藤新平の部下だった)。

物語(小説)は、大久保利通の日記を所々に挿み進められている。

江藤新平に対して「彼の闘魂の激しさには一種の悽愴さを覚える」としている。
江藤は大久保を甘く見ていたようである。と、結論づけて書かれているが、大久保の日記から冷徹な性格が
見て取れる。
---江藤醜態は笑止なり。
四月十三日、大久保は、江藤の刑終わった報告を聞いて、
---今日都合よく相すみ、大安心。
と、日記を結んだ。
大久保を評して、「大久保の表情にも、一種の悽凉さがある」と書かれているが、「悽凉」が意味不明(寂しさ?)

ここまでの対立を生んだ、江藤と大久保の関係は何だったのだろうか? 
物語(小説)は、江藤新平一行の逃亡記なのだが、大久保との関係で鬼気迫るものがある。

その大久保利通も、明治11年(1878年)5月14日、紀尾井坂(東京都千代田区紀尾井町)にて暗殺された。

清張は評伝的な小説を数多く書いている。取りあげる人物の面白さもさることながら、史実なのかフィクションなのか、
独特の視点から物語を膨らませて歴史の一場面として提供してくれる。
清張得意の分野とも言える。この作品は、初期のものだから、以後も得意として書き続けたのかも知れない。



(※Wikipedia(ウィキペディア)によると)
●大久保利通
慶応4年(1868年)1月23日、太政官にて大阪への遷都を主張する。
明治2年7月22日(1869年8月29日)に参議に就任し、版籍奉還、廃藩置県などの明治政府の中央集権体制確立を行う。
明治4年(1871年)には大蔵卿に就任し、岩倉使節団の副使として外遊する。
外遊中に留守政府で問題になっていた朝鮮出兵を巡る征韓論論争では、西郷隆盛や板垣退助ら征韓派と対立し、
明治六年政変にて西郷らを失脚させた。
明治6年(1873年)に内務省を設置し、自ら初代内務卿(参議兼任)として実権を握ると、学制や地租改正、徴兵令などを実施した。
そして「富国強兵」をスローガンとして、殖産興業政策を推進した。
明治7年(1874年)2月、佐賀の乱が勃発すると、ただちに自ら鎮台兵を率いて遠征、瓦解させている。
また台湾出兵が行われると、戦後処理のために全権弁理大臣として9月14日に清に渡った。
交渉の末に、10月31日、清が台湾出兵を義挙と認め、50万両の償金を支払うことを定めた日清両国間互換条款・互換憑単に調印する。
また出兵の経験から、明治8年(1875年)5月、太政大臣の三条実美に海運政策樹立に関する意見書を提出した
大久保はプロイセン(ドイツ)を目標とした国家を目指していたといわれる。
当時、大久保への権力の集中は「有司専制」として批判された。
また、現在に至るまでの日本の官僚機構の基礎は、内務省を設置した大久保によって築かれたともいわれている。
明治10年(1877年)には、西南戦争で京都にて政府軍を指揮した。
また自ら総裁となり、上野公園で8月21日から11月30日まで、第1回内国勧業博覧会を開催している。
その後、侍補からの要請に乗る形で自らが宮内卿に就任することで明治政府と天皇の一体化を行う構想を抱いていた。

●河野敏兼
河野敏鎌(1844~1895)は幕末の志士、政治家。通称は万寿弥。
北奉公人町に生まれ、土佐勤王党に参加し、坂本龍馬が脱藩した折、朝倉村まで見送ったといわれる。
勤王党の獄で終身刑を受けた。
のち、改進党の副総裁となったり、農商務、司法などの大臣を歴任した。

●佐賀の乱
岩村高俊は佐賀権令となって下関より佐賀に来た。
佐賀の憂国党を江藤は制御する事ができず、岩村が入県した2月15日の夜、佐賀の乱は勃発した。
権令岩村高俊は憂国党より攻められ、16、17、18日と3日間籠城して戦ったが、賊の勢は増々盛んとなり、
高俊はようやく囲みを破って城を脱出した。
その時大久保利通は、岩村通俊を幕僚として、佐賀鎮定の為に兵部、刑部(警察)両面の全権を帯びて、
東京、大阪の鎮台兵を連れて佐賀に着き、大攻撃を加えてこれを破った。
23日江藤新平は戦場を逃れて船で脱出し、薩摩へ向かい、3月1日と2日に西郷に逢ったが保護を拒否されたので、
やむなく日向に向かい、小倉処平に会い、その尽力で外の浦より渡船をやとい、
一行9名(江藤新平、香月桂五郎、中島又吉、横山節里、山中一郎、中島鼎蔵、横山叙臣、江ロ林吉、船田次郎)は
豊予海峡を横断して3月15日宇和島に上陸した。これは土佐の林有造、片岡健吉に会う為であった。



2016年06月21日 記 
作品分類 小説(短編) 16P×1000=16000
検索キーワード 征韓党、明治維新、佐賀の乱、佐賀城、逃亡、薩摩、土佐、四万十川、宗龍寺、島屋、吉田屋、梟首、裁判 
登場人物
江藤 新平 征韓党党首。四十一歳、丈高く肉肥えたる方.顔面長く、頬高、眉濃く長き、眼太く眦長き方。頭脳明晰、闘争心も人一倍。
大久保 利通 江藤新平の政敵。初代内務卿、佐賀の乱が勃発すると、ただちに自ら鎮台兵を率いて遠征、瓦解させる。
船田 次郎 二十一歳。江藤から同行を離れることを説得されるが、最後まで同行する。
江口 村吉 船田と共に最後まで江藤と行動する。「林吉」とする資料もある。
河野 敏兼 江藤新平の部下。後に裁判長となって江藤に「梟首」の刑を言い渡す。
林 有造 江藤と決起の約束をする。最後に江藤を裏切る。

梟示抄