事件簿C

清張分室 パンドラの過去? 清張分室

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『松本清張事件簿No04』

「松本清張と司馬遼太郎」


どちらが大作家?

インターネットで調べてみました。「松本清張と司馬遼太郎」で検索

@
単純に比較できないかもしれませんが、松本清張です。
司馬さんは司馬史観というある意味困った考え方で小説を書いています。
事実よりも思想が来るような人は歴史小説に向いていないと思います。
清張さんはやっぱり点と線、ゼロの焦点、眼の壁などの推理小説はすごいですよ。
社会派が嫌いな私でもつい読んでしまいます....
A

両者とも通俗作家にすぎないので、評価の対象にならないが、二人を比較するということであれば、
下記のようになる。
両者とも時代の消耗品的作家ではあるが、...
B
呑んだときの話。
私:「歴史文学で、司馬遼太郎派というのは何でこんなに多いのだろうねえ」
友人:「いや、そういうあなただって、今、清張の小説を読んでいるじゃないか」
私「そうか、近現代を扱った歴史文学には、司馬派と松本派がいるんだな。司馬史観というのは単純に言えば、
<アングロアメリカンには逆らいません史観>だけど、松本清張は、ずばり反米愛国史観」
友人:「でも清張は共産党員だぜ。だからこそ反米なんだけど。『日本の黒い霧』なんかにそこは良く出ている」...
※よくある中傷ですが、清張は共産党員でもないし、『日本の黒い霧』を反米思想の典型として批判しますが、清張自身が当時の社会情勢から
駐留軍(アメリカ占領軍)、GHQ、GS、G2等の関わりが疑われる事件を集めた作品集であることを述べています。
いわば、歴史小説集、短編小説集なのです。ですからその中に、現代小説がないとか、長編小説が無いとの批判は当たらないのです。

推理小説集に私小説がないとも言える批判は、批判の為の批判と言えるでしょう。(素不徒破人)

一応三者三様ですが、一般論の代表的な意見でもあるのでしょう。

では、その筋の専門家は...?

『清張さんと司馬さん』 (半藤一利著、文春文庫)は、松本清張と司馬遼太郎という、持ち味は違うが、
間口が広く、奥行きも深い作家に身近に接した編集者の半藤一利が取って置きの内緒話を語るといった
趣があって、清張ファン、司馬ファン、そして半藤ファンには非常に楽しめる一冊だ。の書評から
両文豪を比較してみよう。

著者は、松本清張を名字でなく「清張さん」、司馬遼太郎を「司馬さん」と姓で呼んでいる。
以前作家を姓で呼ぶか名前で呼ぶか書いた事がある。
夏目漱石は「漱石」。太宰治は「太宰」。芥川龍之介は「芥川」。三島由紀夫は「三島」
川端康成は「川端」?「康成」?フルネームで「川端康成」だ。森鴎外は「鴎外」
平凡な名字の場合(松本、森)は名前で呼ぶ...これも「三島」は?である。
名前に特長があれば名前で...「漱石」「鴎外」、清張も「キヨハル」でなく「セイチョウ」だからok?
芥川龍之介と司馬遼太郎は名字にインパクトがあるので名字でok?
こんな所に落ちつくのか...名前の詮索はこの位にして

パンドラの過去は、清張の生前に見解の相違や意見の対立などがあった作家を中心に、「事件簿」として掘り
起こすことを目的としています。
目的に添って、『清張さんと司馬さん』 (半藤一利著、文春文庫)を読み進めます。がその前に
坂口安吾が芥川賞の選考時に清張を絶賛しています。同書で、そのことが紹介されています。
清張ファンとして嬉しい限りですので私も引用します。
「或る小倉日記伝」は、これまた文章甚だ老練、また正確で、靜でもある。一見平板の如くでありながら
造型力逞しく底に奔放達意の自在さを秘めた文章力であって、小倉日記の追跡だからこのように静寂で
感傷的だけれども、この文章は実に殺人犯人をも追跡しうる自在な力があり、その時はまたこれと
趣が変わりながらも同じように達意巧者に行き届いた仕上げのできる作者であると思った。
(「文藝春秋」昭和28年3月号)
半藤氏ならずとも坂口安吾の炯眼に驚きます。


●巨匠が対立した時
同書の小見出しは
「取材の鬼としての両文豪」「理解力、直感力、集中力」「「関ヶ原合戦」をめぐって」「直木賞選考委員として」
そして「実現していた対談」です。
「直木賞選考委員として」で第67回の模様が描かれています。綱淵謙錠と井上ひさしが同時受賞の回のようです。
綱淵謙錠は「斬」、井上ひさしは「手鎖心中」。綱淵を推す司馬、井上を推す清張。
井上ひさしファンでもある私は、ここで清張に納得ですが、両氏の推薦理由を読んでも「手鎖心中」を読んだが、
「斬」は読んだことがない為公平な判断は出来ません。
そして「実現していた対談」ですが、「文学と社会」松本清張対談集:日本の歴史と日本人(新日本出版社)
読むことが出来ます。
なかなか面白い対談です。
対談の最後が
松本:幻想と片づけられるといささか不満だけれども.....
司馬:僕の立場は古代史に関するかぎり、諸説は幻想であってもいいと思います。
    松本さんはあくまでもチャレンジする性格だから、説でおいきになったらいいんですけれども、
    ぼくはチャレンジの性質ではないので幻想でいいんです。
    しかし、今日はいわゆる進歩的という妄想を二人とも持っていないことがはっきりしましたね。....


清張さんと司馬さんで半藤氏はこう述べています。
>両文豪は互いに意識しすぎてか、まったく、といっていいほど、それぞれがそれぞれについて何かしら批判的な
  話をするようなことはありませんでした。それはもうこちらが不可思議、というか面妖にに感じられるほど徹底して
  いました。

そして
司馬さんが、はるか高みから鳥瞰図的に眺め、次第にズームアップして焦点を探るという手法に対し、
清張さんは、地を這う虫のように視野はたとえ狭くても、ひとつひとつコツコツと見定めてゆくという捕らえ方。
いわば鳥瞰と虫瞰の違いか?
でも、私は納得できない。清張はトンボの眼。
ヤゴ(幼虫:虫瞰)から、鳥ほど高くは飛ばないが、あの間口の広さは複眼で物事を捉えていたに違いない。

2013年2月24日 記

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